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野球王国・四国復活か? 上甲×馬淵、懐かしの盟友対談 その1

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

上甲正典は愛媛県三間町(現宇和島市)、馬淵史郎は八幡浜市の生まれだ。いずれも愛媛県で南予といわれる地域。愛媛といえば、夏の甲子園の通算勝率1位を長く保ち、野球王国として知られている。ただ、南予勢は分が悪い。夏将軍・松山商など松山市内を中心にした中予、今治、西条や新居浜の東予に比べると、南予からは八幡浜、帝京五、南宇和が甲子園に出ている程度。上甲の宇和島東、馬淵の三瓶とも、晴れ舞台とは縁遠かった。

馬淵 「南予のチームは、松山商に勝てなかったですね。でも、南予からも松山商にエエ選手が行ってはいた。山下律夫(元大洋)さんがそう。ほかにも、南宇和から高知の宿毛にかけてはいい選手が出るんです。僕と同期の藤田学(元南海)は南宇和です」

上甲 「ともかく、商業の強かった時代です。プロ野球選手も数え切れないほどいて、全国優勝も何回もある。その点ウチら、学校には伝統があるけど、野球では一度も甲子園に出たことがない、伝統がない。1982年に僕が母校の監督になるまで、宇和島中の時代から夏の大会だけでも(松山)商業に15連敗ですわ。監督として初めて商業と対戦したのは、84年夏の決勝で2対18、翌85年の夏は初戦で当たって1対9。失点が半分になったやないか、といわれても慰めにもなりません。86年も決勝で当たって0対6……これで夏、18連敗です。宇和島東が甲子園に初出場した87年の夏は商業と対戦がなく、夏の愛媛で初めて商業に勝ったのは、2回目の出場だった89年(準決勝○3対1)でした」

馬淵 「僕は高校に進むとき、松山商業で野球をやりたい、いうて親に反対されて、三日三晩泣きよったですよ。ちょうど三瓶中学2年のとき、松山商と三沢が甲子園の決勝で延長18回引き分け。そらあ、あこがれますよ。あの純白のユニフォームがうっすらと黒く汚れてるのを、白黒のテレビで見てね。僕らの年代くらいの野球好きな人間は、松(山)商の校歌を覚えているんじゃないですか」

上甲 「僕は生徒に教えました、ホントに。敵を知れば百戦危うからず。いまでも歌えますよ。♪石鎚の山伊予の海 金亀城頭春深く……」

馬淵 「♪緑の山や商神の……」

上甲 「緑の"旗"や」

相手がスポーツカーなら、ワシらはダンプ

(笑)そもそも、松山が愛媛の野球の中心になったのはどういう背景なのだろうか。

上甲 「馬淵君は日本史の先生やからね、歴史はよう知ってる(笑)」

馬淵 「そらあやっぱり、松山市出身の正岡子規の存在が大きいでしょう。大変な野球好きだった子規は、本名を升(のぼる)といって、一説ではこれを野・ボールとしゃれたのが"野球"につながったともいいますし、読売巨人軍が初めてキャンプを張ったのが松山だとか。ともかく、野球発祥の地に近いプライドを持っていますね。野球に思い入れが強い。それと、ファンの目が肥えています」

上甲 「そうそう。松山商業なんかは町中にあって、通りすがりにフラッとグラウンドに入れるから、いつも近所のファンがネット裏で練習を見ているんだよね。となると、選手は手抜きできない。監督じゃなくてファンに罵倒されるから、トイレ行くにしても何にしても、きびきび動くようになる。バットやスパイクも、ピシーッと整頓されて。監督はもちろん、ファンの目が厳しいとなると、練習の質も上がるわ」

馬淵 「同じ北四国としては、高松商が先に全国制覇(1924年センバツ)したでしょう。松山商の優勝が翌年のセンバツで、その夏はまた高松商が優勝。ライバル意識はえげつなかったらしいね。香川と愛媛が争う北四国大会になると、開催県の連盟ではなく大阪の高野連の本部から審判が来ていたらしいですから。高松でやったら高松びいきに、松山でやったら松山びいきになる。中立を保つためにはよそから、いうわけです。

だからファンの熱狂もすごいわ。高松のチームが松山にきて道後温泉に泊まると、夜中に松山のファンが大騒ぎして睡眠不足にさせた。かと思うと高松は高松で、地元の試合中に形勢不利となったら、グラウンドのそばにあった水門を開けて、グラウンドを水浸しにし、中止にさせたといいますから、そらあもう……(笑)」

上甲 「そんな熱狂的なファンが見ていたら、手は抜けんわな。いまさっき馬淵君がいった69年夏に優勝した松山商業、エースの井上明君ね。聞いた話だが、そのころの練習なんか、1000球放るんです。泣きながら投げるくらい疲労困憊したなかで、しかも最後に、決められたストライクゾーンを10球連続通さないと終わらない。ほかにも、よくいわれる1000本ノックとかね。

僕らは実際、その年代と対戦したことはないけれど、愛媛の野球は昔から精神野球よね。それと瀬戸内、対岸の広島商、尾道商、宇部商あたりまで、お互いに戦いながら野球のスタイルをつくっていったという気がしているね。しかも、繊細かつ大胆なところがある。そういう蓄積した伝統というのは、なかなか追い越せんわけよな。

守りを鍛えてチームづくりをしていったのが松山商の伝統なら、追い越すには攻撃野球でいくしかないやろ。もちろんいいところはマネをするけど、マネを自分たちのカラーにしたんじゃとうてい勝てません。相手がスポーツカーなら、ワシらはダンプなみのパワーをつけて、さらにスピードをつける方法を考えようやないか。それで導入したのが筋トレです。

いまや筋トレは常識だけど、ボート漕ぎのトレーニングを採り入れたのはたぶん僕が一番だと思うね。脚と腕の力をタイミングよく使うようになるし、苦しいから持久力もつくし、精神的に強くなるわな。その結果が出たのが、87年ですよ。160センチそこそこの選手が、県大会で4本もホームランを打つんだから、トレーニングの成果には正直、僕自身が驚いた」(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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