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関ヶ原合戦の前日、毛利輝元は本領安堵を条件として、徳川家康と和睦していた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利輝元。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦の模様が描かれ、西軍は無念にも敗北を喫した。もちろん西軍が負けたのには理由があり、毛利輝元が合戦の前日に寝返ったからだった。その経緯について触れておこう。

 慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)が「内府ちかひの条々」を発し、家康に対して挙兵すると、輝元はすぐに大坂城に入った。

 従来説によると、輝元は嫌々ながらも総大将に祭り上げられたといわれているが、それは間違いである。そもそも輝元は「反家康」の急先鋒であり、これを機会に家康を討とうと固く決心していたのである。

 輝元には、参謀と言うべき家臣がいた。1人は安国寺恵瓊で、三成とともに西軍を牽引していた。もう1人は吉川広家であるが、必ずしも西軍と東軍のいずれに与するのか、態度が鮮明だったわけではなかった。

 むしろ広家は非常に冷静で、東軍の黒田如水(孝高)・長政父子と盛んに連絡を取っており、西軍・東軍のいずれが有利なのかを見極めようとしていたのである。

 その間、西軍が不利に傾きつつあったのは事実である。宇喜多秀家は、御家騒動で重臣が家中を出奔したので、すっかり弱体化していた。それゆえ秀家の率いる軍勢は牢人衆が多く、あまり期待できなかった。

 薩摩の島津氏は義久・義弘兄弟が仲違いしており、出陣を予定していた軍勢の数を大幅に下回っていた。おそらく、そうした情報は広家の耳に入っただろうから、輝元にも伝わったに違いない。

 こうして、関ヶ原合戦前日の9月14日、毛利氏は東軍に与することを決意した。

 家康の側近である井伊直政・本多忠勝の血判起請文には、①輝元に対して家康が疎略にしないこと、②広家と福原広俊が家康に忠節を尽くすうえは、家康が疎略にしないこと、③忠節が明らかになれば、家康の直書を輝元に渡すこと(分国の安堵も相違なし)、と記され、広家と広俊に宛てられた(「毛利家文書」)。

 毛利家が東軍に与するに際して、起請文を取り交わすことにより、互いの約束を強固に取り結んだのである。

 同日付で、福島正則・黒田長政から広家と広俊に送られた連署血判起請文にも、輝元に対して家康が疎略にしないこと、などが記されている(「毛利家文書」)。

 直政・忠勝の起請文に加えて、正則と長政の起請文が提出された理由は、輝元が東軍に勧誘した2人の確約を欲したからだろう。輝元は、意外にも慎重だった。

 こうして毛利家は東軍に与したが、この事実について、南宮山に布陣した恵瓊と毛利秀元は知らなかった。結局、関ヶ原合戦がはじまっても、毛利軍は前日に家康と和睦をしていたので、ピクリとも動かなかったのである。

 西軍が敗北した大きな要因は、毛利氏の土壇場の寝返りにあったのである。しかし、輝元は決して安泰ではなく、戦後は減封となったが、その点は改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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