“娘殺しの母”とミニスカート~冤罪獄中20年 ある女性の世にも数奇な物語(3)警察署は消え人生は続く
偏見に満ちた記事が青木さんのイメージを作った
青木惠子さんが逮捕された当初、週刊誌には連日センセーショナルな記事が躍った。「実の娘を焼殺した“鬼母”」「強欲主婦の“鬼畜”」「家事もせず、食事はほとんど外食ばかり」「カード生活で家計破綻」…週刊誌ばかりではない。新聞もテレビもこぞって青木さんを犯人扱いした。こうした記事が青木さんについての世間の印象を大きく左右したことは間違いない。
しかし、これらの記事から透けて見えるのは24年前の時代背景だ。「母親は手料理を子どもに食べさせて当然」という考えがあるから、「そうしない母親は子どもを大切にしていない」、そこから「子どもを殺してもおかしくない」という思い込みにつながったのだろう。家事が苦手な女性に対する偏見と言ってもよい。記事は「家事をしない母親」→「外食などで浪費」→「カードローンがかさむ」→「娘の保険金を狙った殺人」という構図が共通している。
やり直しの裁判で、青木さんの無実は完全に証明された。放火は不可能、自白はすべて無理矢理、火事は自然発火とみられる。灰色ではなく真っ白な無罪と言ってよい。それでもなお疑いの目で見る人はいる。一度染みついた印象は、なかなか覆らない。
では、青木さんと娘のめぐちゃんとの関係は、実際はどうだったのだろうか? 以下は青木さんの話だ。
“鬼母”の真実…
高校生のころまではそんなに子ども好きという訳でもなかったの。でも卒業して就職して子供服売り場で働くようになったら、子どもが大勢来るじゃない。それを見ているうちに「子どもってかわいいなあ」と思うようになって、どうしても子どもが欲しくなったの。欲しくて欲しくてできた子だから大切に決まってるでしょ。勤め先は日曜も仕事があったから、めぐちゃんと遊びに行きたくて辞めたわ。
私は料理が苦手。実家にいたときに習うこともなかったし。夫は料理が上手で「いいよ、いいよ」って全部してくれたから、私は甘やかされて料理ができないまま。だから料理を作ることが少なかったのはそうだけど、それでも遠足なんかでは必ずお弁当を作って持たせていたのよ。
でも夫が働かなくなって生活が苦しくなった。小銭を集めてやっと「かっぱえびせん」を一袋買ってめぐちゃんに食べさせたこともあった。めぐちゃんが「ママは食べないの?」と言ってくれて、私は「ママはいいから」と言って全部食べさせたわ。
そのうち夫が蒸発して、私は家計のため夜、スナックで働くようになった。めぐちゃんの小学校の先生から「スナックは辞めて下さい」って言われたけど、辞めてどうやって稼げって言うのよ。結局、店に来ていた男と一緒に暮らすようになって店は辞めたけどね。それが内縁の夫。私の感覚では同居人だけど。彼と一緒に暮らすようになったのは、生活が助かるから。子どもたちを育てるのに不安がないと思ったから。子どもたちのためだったの。それがこんなことになるなんて…
阪神大震災で当時住んでいたマンションの水が出なくなって、両親が持っていた東住吉の家に引っ越すことになったの。これがなければあの家に住むこともなく、火事も事件もなかったのにね。
心は31歳
青木さんと話していると、亡くなっためぐみさんへの愛情と後悔の念がひしひしと伝わってくる。同居人の男性が性的虐待をしていたこと、それに気づかなかったこと、火事で助けられなかったこと、すべてが悔やまれてならない。
それに私から見ると、青木さんは魅力的な「大阪のおばちゃん」だ。おしゃべりでおもろい大阪のおばちゃん。こういう人が娘を殺すだなんて、よく思ったものだ。
もっともご本人にこう伝えたら「おばちゃんって言われたの、相澤さんが初めてよ!」という反応が返ってきた。やはり女性に「おばちゃん」は失礼だった。まして青木さんは「心は31歳」ですから…。よって訂正。青木さんは魅力的な「大阪の女性」です。
ただ、いつも思ったことをズバズバ言うから、場の空気が凍ることもある。青木さんのことを「空気を読まずに切り裂く」と表現する人もいる。そう語る人は好意的に見ているのだが、そのあたりが一部で周囲の反発を招くことになったのかもしれない。
ミニーちゃん大好き
青木さんの部屋に入ると、真っ先に目に付くのがミッキーとミニーの大きなぬいぐるみ。息子夫婦からのプレゼントだ。室内に家具が少ないだけに存在感がある。車に乗ると、クッションもハンドルのカバーもミニーちゃん。青木さんはミニーちゃんが大好きなのだ。
「だってかわいいじゃないの。私は高校生の時からずっとミニーが好きよ。通学カバンにミニーちゃんの小さなぬいぐるみをつけていたんだから。獄中にもミニーちゃんのハンカチを差し入れてもらったくらい」
青木さんの日常はめぐちゃんが好きだった黄色とミニーちゃんの赤色で染められている。
20年間の獄中手記が本に
青木さんは獄中にいた20年間、手記を書き続けていた。ノートは全部で22冊。細かい文字でびっしりと埋まっている。ノートの使用に制約があり、節約するためだ。
身に覚えのない罪。塀の外には幼かった息子。ノートには息子への思いも詰まっていた。
「S(息子の名)と別れて、7年以上が過ぎてしまったので、私はあなたの成長した姿を想像することもできなくなってしまいました」「とても親としては悲しく思います。いつか必ず、会って話ができると信じて、裁判で無実を勝ち取ろう」
この手記は本となって出版されている。題して「ママは殺人犯じゃない 冤罪・東住吉事件」(インパクト出版会)
苦い獄中生活にも、いい思い出はある。刑務所で出会った女性の看守。「青木さんの無実を信じるわ」と言ってくれた。刑務所で責任ある作業を任せてくれた。火事の再現実験の結果が出た時は「よかったね」と喜んでくれた。そういう出会いもあった。
青木さんは出所してからも日記を毎日つけている。
「だって怖いじゃない。いつ何時また無実の罪に陥れられるかわからないんだから。そういう時に毎日の記録があれば役に立つでしょ。だから私は毎日欠かさず日記をつけずにはいられないの」
警察署はなくなり、人生は続く
24年前、青木さんが取り調べを受け、逮捕された大阪の東住吉警察署。青木さんは長年、その建物を見るだけで気分が悪くなっていた。ところが最近、東住吉警察署の建て替え工事が始まった。今は解体されて署の建物はない。青木さんが無理矢理自白させられた取調室も、もうない。
「えっ警察署がなくなっているって、びっくりしたわ。あそこには嫌な思い出ばっかりだけど、時代は変わるのよね」
今、青木さんは近所のパソコン教室に通っている。出所当時は浦島太郎状態でパソコンのことなどまったくわからなかったが、それではメールのやりとりもできないし、現代社会で生活するのに不便極まりないからだ。今ではタブレット端末を持ち歩き、毎日の日記を出先で入力しては自宅のパソコンに移している。スマホまで使いこなすようになったのは、2年前を知る私には驚きだった。
以前は飛行機も新幹線も自分だけでは乗れなかったが、今では一人で全国各地を飛び回っている。3月には飛行機で熊本まで行き、「松橋事件」というえん罪事件の再審無罪の判決を傍聴。支援者たちと喜びを分かち合った。
しかし、世の中にはまだまだえん罪を訴えて苦しんでいる人たちがいる。そういう人たちのため、青木さんはこれからも支援活動に取り組んでいくつもりだ。
「私は一生懸命生きてきた。子どもたちを精一杯守ろうとしてきた。これからも真剣に生きていくわ。失った20年は、もう何とも思わない。私は忙しいのよ!」
青木惠子さん、55歳。魅力的でパワフルな大阪の女性。彼女の人生は、これからだ。