徳川家康との側近として活躍した南光坊天海の謎だらけの前半生を考える
仕事ができる人の中には、謎めいた人が少なからずいる。徳川家康の政僧だった南光坊天海は、手腕をいかんなく発揮したが、その前半生は謎だらけなので、考えることにしよう。
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天海が誕生したのは、陸奥国会津高田(福島県会津美里町)といわれているが、生年については12もの説がある。数ある説の中で有力視されるのは、天文5年(1536)誕生説といわれている。
寛永9年(1632)4月17日、天海が日光東照宮薬師堂法華万部供養の導師を担当したときの記録によると、天海は数え年で97歳だったという。ここから逆算すれば、天海の生年は天文5年(1536)になる。ほかの説は、信頼度の劣る史料に書かれているので疑わしいという。
天海の出自も謎が多く、蘆名氏を出自とする説がもっとも有力視されている。このほかにも将軍足利義澄の末子だったという説もあるが、こちらは年代的な矛盾が著しいので成立しない。
天海は11歳で出家すると隋風と名乗り、高田稲荷堂の別当舜海のもとで修行に励んだ。14歳になると、比叡山延暦寺で天台宗を学んだ。しかし、天海は非常に向学心が強く、のちに奈良の主要寺院でさらに学問に励んだという。
奈良をあとにした天海は、故郷の稲荷堂の別当に就任した。天正5年(1577)、天海は上野国長楽寺(群馬県太田市)において、春豪から天台密教葉上流を授けられた。
天正10年(1582)、天海は武蔵国無量寿寺(埼玉県川越市)に入寺すると、この頃から天海の名を用いたという。そして、家康と運命的な出会いを果たしたのも、同じ頃だったと伝わる。
慶長14年(1609)以降、家康は天海を側近として重用し、やがて朝廷政策、宗教政策などを任せるようになった。なお、天海と明智光秀が同一人物だったという説があるが、それは事実無根の妄説である。
慶長19年(1614)、天海は大坂の陣がはじまるきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」に関わった。翌年、豊臣家は滅亡すると、家康は名実ともに天下人になった。寛永20年(1643)に天海は亡くなり、108歳という長寿を全うしたのである。