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♪ああ PL PL 永遠の学園 のはずなのに

楊順行スポーツライター

甲子園優勝回数7、通算勝利96は、いずれも中京大中京に続いて2位タイ。高校野球の超ブランドであるPL学園の野球部が、廃部の危機にある。来春入学する新入生の部員募集を停止することを、学校の理事会で決めたというのだ。

桑田真澄・清原和博の時代(83〜85年)には、夏2回の優勝、春夏各1回の準優勝など、栄華をきわめたPL。だが今世紀に入ると、迷走を繰り返した。01年には、暴行事件が発覚して半年間の活動停止処分を受け、08年にも暴力事件、11年には部内暴力と喫煙で、1カ月の対外試合禁止処分を受けた。毎年のように不祥事を繰り返せば、強化はままならない。今世紀の甲子園出場は夏3回、春2回で、通算勝ち星は6。これ、桑田・清原の時代などなら、1大会で容易に並ぶ数字である。その間には大阪桐蔭、履正社など、かつて打倒・PLに血眼になった高校が台頭し、名門はすっかり影が薄くなっていた。

そこへもってきて、廃部の危機だ。昨年3月に発覚した部内暴力の責任をとり、当時の監督が辞任。野球経験のない正井一真校長が昨秋の府大会から部長としてベンチ入りし、近畿大会からは監督を務めてきた。とはいえ、なにしろ野球経験がない。試合では、野球の知識に卓越した部員がサイン出す。ただそれでもこの夏、あるいは秋の準優勝など、4季連続で大阪府の4強以上に進んでおり、名門としての意地を見せてはきた。それがなぜ、廃部の危機に……。

教団への信仰心という、新監督決定へのハードル

「野球経験のある指導者の不在が続き、責任を持って預かることができないため」

というのが学校側の説明だが、じゃあなぜ、正井校長に代わる新監督が決まらないのか。日常の練習は、立浪和義(元中日)らと同期のOBコーチを中心に行われているから、そのコーチが監督に就任すればいいと思いがちだが、これに関しては、パーフェクト・リバティー教団に対する信仰心がネックで実現がむずかしい、とかねてから聞いていた。学校側は部員募集の再開について、

「廃部につながるものではなく、新監督が決まれば(存続を)検討することになる」

としているが、逆にいえば。新監督に適材が見つからなければ廃部も辞さず。うがった見方をすれば、たび重なる不祥事で、宗教法人としての体面をこれ以上傷つけられてはたまらないという思惑もあるだろう。現に教団の信者数は減少の一途で、かつての甲子園では精緻な人文字と華やかなブラスバンドで彩られたアルプスも、近年の出場では少し寂しくなっていた。

不祥事の温床とされるのが、寮生活での付け人制度だった。上級生と下級生が同部屋で生活し、下級生は上級生のユニフォームの洗濯からスパイク磨き、夜食の世話、自主練習の手伝いなどをつきっきりでこなすものだ。ここでの絶対的な上下関係は、あまたのOBが「いくらお金をもらっても、絶対にもう一度はやりたくない」と口をそろえる。この慣習は上級生に万能感を与え、ときに歯止めの利かない服従を強いる。それが知れ渡るほど、有望な中学生はPLへの進学を躊躇することになり、これが大阪桐蔭などライバルの躍進の遠因にもなった。

ただ、こんな話も聞いた。今年の5月、名古屋商科大・中村順司監督に会ったときだ。かつてPLの黄金期を率い、甲子園では初采配からの20連勝を含め通算58勝10敗、春夏6回の全国制覇を成し遂げた名将である。

「付き人というと聞こえは悪いですが、言葉を換えれば、下級生がつく先輩は、教育係でもあったんです。たとえば起床したらすぐにサブグラウンドで体操し、食事はそれから。その食事にしても、配膳の手順や食器の下げ方など。そして食事が終われば、登校前にやっておくべきこと。右も左もわからない下級生に、そういう手ほどきをする。あるいは練習開始前にはどんな準備をしておけばいいのか、お客様がグラウンドにきたときは、どう挨拶し、どう迎えればいいのか。練習後の後片づけは、グラウンド整備の手順は。そういうチーム内の決めごとを、下級生が教わるわけですね。

練習後の自主練習なら、上級生は、後輩にトスを上げてもらったら、たとえ本数は少なくても、そのあとに後輩にも打たせる。すると上級生は、私の技術論を毎日耳にタコができるほど聞いていましたから、下級生が打つフォームを見て、気づいたことをアドバイスできますね。たとえば、"ちょっとバットが遠回りしてんのとちゃうか?"、とかね。そういうしきたりが学年から学年に伝わっていき、チームの基礎にもなっていたんです」

中村監督といえば、56年に創部したPL野球部の10期生だ。当時のPLといえば布教、また私学の経営戦略として、野球部の強化を進めていた時期だ。全国の教団支部の推薦を受け、200人ほどがセレクションに集まり、そのうち合格するのは10名ほど。だが、そうそうたるメンバーがそろった。中村の上の9期生には中塚政幸(のち大洋)、戸田善紀(のち阪急など)がいて、2年だった63年、中村は控え野手としてセンバツに出場している。

近畿大会で来春センバツ切符を

中村によると、当時の練習はそれは厳しかったらしい。

「日常は、授業が終わってから全速力でグラウンドに走る。先輩より少しでも遅かったら、それだけで下級生には"集合"がかかってね(笑)。日が落ちてからもグラウンドで照明をつけてやり、休みになると朝10時から夜7時までずっとグラウンドにいた。もし練習中にだらけようものなら、練習後にグラウンドのフェンス沿いに並ばされ、ホームベースの先輩に向かって大声で自分の名前を叫ぶんです。本当は聞こえているはずなのに、"聞こえん!"と何回も繰り返して、最後は声が出なくなるんです」

まあ、それも時代というものか。付け人制度の効用は認めるにしても、あるいは想像を絶する練習の厳しさにしても、現代の野球小僧にそのまま通じるとは限らない。現に最近は、四六時中上級生と顔をつきあわせる寮生活は敬遠され、通学を前提とする学校の人気が高くなりつつある。今年PLでは、悪しき慣習の一掃に乗り出したようだが、その矢先である。中村は廃部の危機というニュースに触れ、

「非常に驚いています。チームに迷惑がかかるかもしれないので、あまりコメントはできないが、ただただビックリしています。母校であり、多くの教え子もいる。何でだろうな、という気持ちです」

と語った。僕にしても、それは同じ。PLのグラウンドには何回も足を運んだし、高校時代を含め、話を聞いたOBとなるとそれこそ数知れない。今年、社会人野球・東芝のキャプテンになった木野学とは、1学年上の前田健太(現広島)が06年のセンバツで見せた本盗の思い出で盛り上がった。

18日からは、近畿大会が開幕する。もしここでPLが好成績を残し、来春センバツの出場が有力になれば、正井校長がそのまま指揮を執る予定だという。願わくばそのときは新監督を迎え、部の存続に向けて再スタートしてほしい。なにしろ1915年に第1回が始まってからおよそ100年、春夏の甲子園優勝経験校で、廃部になった例はないのだから。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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