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大航海の時代、日本では大地震が頻発する中、3英傑が天下統一を果たす

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

大航海時代に2つの大国に分割された世界

 1492年にコロンブスが西インド諸島を発見し、1522年にはマゼランのスペイン艦隊が世界一周を成し遂げ、地球が球体であることが証明されました。1529年には、コペルニクスが地動説を唱えます。ポルトガルとスペインの領土争いの中、両国が世界の線引きを行い、1494年のトルデシリャス条約で大西洋上に、1529年のサラゴサ条約で太平洋上に線を引きました。その結果、ブラジルを除いたアメリカ大陸の大部分とそこから西側のニューギニア島の中央までがスペイン領、他がポルトガル領とされました。日本の上にも境界線が通されました。

 この間、インドでは1526年にイスラム教のムガール帝国が成立し、アメリカ大陸では天然痘などの流行もあって1533年にスペインによってインカ帝国が滅ぼされます。 東南アジアの諸国は、スペイン領のフィリピンを除いてポルトガル側に含まれましたので、ポルトガルが東回りでアジアに進出してきました。その拠点がインドのゴアで、その後、マレー半島のマラッカや、明のマカオも拠点にしました。

 その後、1580年に、ポルトガル王家が断絶したため、ポルトガル王家の血を引くスペイン国王のフェリペ2世がポルトガル王を兼ね、ポルトガルはスペインに併合されました。この結果、スペインはポルトガル領も手に入れ、太陽の沈まぬ国になりました。スペインは、アメリカ大陸から大量の銀を取得し、それを使って東南アジアから香辛料などを購入し、莫大な利益を得ます。スペインは、このお金を使って、各地で戦争を拡大します。

宗教改革後のカトリックとプロテスタントの確執

 1517年にルターが95か条の論題を発表して宗教改革が始まり、ドイツやイギリス、北欧がカトリックから離れ、イギリスでは1534年に国教会が生まれました。カトリック教会はこれに対抗して、1545年にトリエント公会議を開き、教会の刷新と自己改革を始めます。この公会議は、伝染病などで何度も中断しながら1563年まで続きます。公会議に先立つ1534年には、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって宗教改革に対抗するイエズス会が創設され、世界各地で布教して、カトリックを拡大しました。カトリック国のスペインとポルトガルは、布教を通して各国の植民地化を進めました。

 一方で、スペインの植民地だったオランダは新教徒が多く、カトリックを強要するスペインに対して1568年に独立戦争を始め、1581年に独立を宣言しました。スペインは、オランダを支援したイギリスに対して1588年に無敵艦隊を派遣しましたが、アルマダ海戦でイギリス海軍に敗れ、これ以降、スペインの力が徐々に弱くなります。イギリスやオランダの力が増し、イギリスは1600年に、オランダは1602年に東インド会社を設立し、東南アジアに進出します。

大航海の時代に鉄砲とキリスト教が伝来し、織田信長と豊臣秀吉が天下統一を果たす

 大航海の時代は、日本では戦国時代の真っただ中でした。また、中国の明は海禁政策をとっていたため、東アジアでは倭寇による密貿易が盛んでした。その中、1543年に倭寇の船に乗ったポルトガル人が種子島で鉄砲を伝えました。6年後の1549年にはスペイン人でイエズス会のザビエルがゴアを経由して薩摩にやってきて、キリスト教を伝えました。1550年代には、宣教師などを介して南蛮貿易も始まります。

 戦国大名にとっては、鉄砲の威力は絶大です。国内でも、堺などで鉄砲の生産が盛んに行われ、戦い方が大きく変わります。また、西国の戦国大名の多くがキリスト教に改宗し、キリシタン大名などが南蛮貿易も盛んに行いました。

 こういった中、1560年に桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破ります。信長は、キリスト教を保護して、武器弾薬の入手や南蛮貿易をしつつ、1567年の稲葉山城の戦い、1570年の姉川の戦いに勝ちます。さらに、石山合戦や長島一向一揆の制圧、1571年の比叡山焼き討ちなどで仏教徒を抑圧します。そして、1575年の長篠の戦で、鉄砲隊を使って武田勝頼を破り、天下統一に近づきます。

 1576年には絢爛豪華な安土城を築城し、石山合戦も1580年に和睦して、石山本願寺が受け渡されます。本願寺はこの時の混乱もあって、東西に分かれていくことになります。

秀吉の天下統一の途中に起きた天正地震

 信長は、1582年に本能寺の変で明智光秀に襲われ自刃します。備中高松城で毛利勢と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉は、毛利勢と講和して京都に戻り、山崎の戦いで光秀を破ります。信長の後継を決める清洲会議での柴田勝家との対立を経て、1583年に賤ケ岳の戦いで勝家を破り、秀吉の時代となります。そして、1583年に石山本願寺の跡地に大阪城を築きます。1584年の徳川家康との小牧・長久手の戦いを経て、1585年に関白になります。

 その直後、1586年1月18日に過去最大の内陸地震、天正地震が起きます。この地震では、養老・桑名・四日市断層帯や阿寺断層帯、庄川断層帯などの複数の活断層が連続して動いたようです。

 飛騨・越中などで山崩れが多発し、帰雲山の崩落では、帰雲城が埋没し内ヶ島氏が滅亡しました。また、いまの高岡市にあった木舟城が倒壊して前田利家の末弟の前田秀継が落命し、琵琶湖畔の長浜城の倒壊で山内一豊の一人娘与祢と乳母が圧死しました。また、秀吉が家康を攻める前線基地だった大垣城が全壊焼失し、秀吉方の織田信雄の長島城も液状化で倒壊しました。最近の発掘調査で清洲城でも液状化の跡が見つかっています。秀吉が築城した長浜城は倒壊しましたが、光秀が作った坂本城にいた秀吉が無事でした。秀吉は、慌てて大坂に逃げ帰ったようです。

 家康は、この地震のおかげで命拾いしたとも言え、天正地震はその後の時代の行方を大きく変えました。その後、秀吉は1590年に小田原征伐により天下統一を果たし、さらに、家康を甲府から江戸に転封します。家康は、太田道灌の作った荒れ果てた江戸城に入城し、城や城下の整備は後回しにし、日比谷の入江の埋め立てや、広大な湿地帯を水田に変える土木工事を進めました。これがのちの家康の強大な力を育みました。

朝鮮出兵と慶長の3地震

 戦国時代を天下統一した秀吉は世界屈指の巨大軍事力を持っていました。このため、列強も手を出しにくかったと思われます。秀吉は、キリシタン大名の宣教師への服従を懸念し、1587年にバテレン追放令を出します。さらに、東南アジアで植民地支配を進めていたスペインなどに対抗するため、朝鮮や中国、インド、フィリピンなどへ外征を構想します。

 1592年には、文禄の役を始め、李氏朝鮮や明の連合軍と戦います。翌年休戦しますが、その後の講和交渉が決裂し1597年に再び慶長の役を始めます。しかし、1598年に秀吉が死んで、撤退することになりました。そして、1600年に関ヶ原の戦いで家康が勝利し、江戸時代へと移っていきました。まさにこの間に大地震が続発しました。

 最初に起きたのは1596年9月1日の慶長伊予地震のようです。そして、3日後の9月4日に別府周辺で慶長豊後地震が、9月5日には近畿周辺で慶長伏見地震が発生しました。これらに先立って、5月と8月には浅間山も噴火しています。

 伊予地震は四国を横断する中央構造線断層帯の川上断層などが活動したと疑われています。豊後地震は、西側の別府-万年山断層帯が活動しました。別府湾にあった瓜生島と久光島が沈んだと言われています。この西には、2016年熊本地震を起こした布田川断層や日奈久断層があります。

 伏見地震は、中央構造線の北東側の有馬-高槻断層帯が活動しました。1995年兵庫県南部地震や2018年大阪府北部の地震もその近くで発生しています。伏見地震では、明との講和会議が予定されていた伏見城が倒壊しました。文禄の役で石田三成・小西行長と不仲になり謹慎中だった加藤清正が秀吉を心配して駆けつけ、謹慎を解かれたという逸話は、歌舞伎演目「地震加藤」になっています。この真偽のほどは分かりませんが、翌年に始まった慶長の役では、加藤清正が先鋒を務め大活躍します。

 この年は、災いが続いたため、元号が文禄から慶長に改元されました。ちなみに、1500年代には11回の改元が行われましたが、災異改元はそのうちの6回、文禄から慶長への改元を除くと何れも兵革によるものでした。

 戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本は世界の動きに翻弄されましたが、戦乱を徐々に治め、国の独立を守り、平和な時代へと移行していきました。西洋史と日本史、災害史を一緒に学ぶことがないので、信長、秀吉、家康らのこういった側面には気づきにくいのですが、改めて戦国武将たちの卓抜した力に感服します。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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