【戦国こぼれ話】福知山城は丹波北部支配の拠点として機能し、明智光秀の家臣・明智秀満が城主だった
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今年2月まで放映された大河ドラマ「麒麟がくる」の効果によって、福知山城の入場者が最多を更新したという。福知山城は光秀ゆかりの城であるが、城主は家臣の明智秀満が務めていた。今回は、福知山城と明智秀満を取り上げることにしよう。
■福知山城の築城
天正7年(1579)に丹波攻略に成功した明智光秀は、翌年になると織田信長から丹波支配を任された。そこで、光秀は亀山城(京都府亀岡市)をさらに補強するとともに、城下町を築いたという。天正9年(1581)4月には、さらに亀山城の普請が行われた状況がうかがえる(「片山宣家氏所蔵文書」)。
こうして亀山城は、徐々に補強を重ねていった。亀山城は京都にも近く、丹後、摂津、播磨へ通じる交通の要衝地だったが、丹波は非常に広く、各所に拠点となる城を必要とした。亀山城だけでは、不足していたのだ。
そこで、光秀が丹波北部の拠点としたのは、福知山城(京都府福知山市)だった。城主は、家臣の明智秀満が務めた。ここで福知山城や明智秀満が期待されたのは、丹後、但馬方面の押さえということだろう。
福知山城は福知山盆地の丘陵地帯に築城され、由良川が天然の堀になるなど要害の地だった。もともとこの地には、室町時代に塩見頼勝が横山城を築いたという。光秀は横山城を大規模に修改築し、名称を福知山城に改めたといわれている。
天正8年(1580)2月13日、光秀は天寧寺(京都府福知山市)に判物を送り、諸式の免除、軍勢の陣取りや竹木等の伐採を禁止する旨を伝えている。
これは判物であることから、光秀自身の意向で発布したものだ。主君である織田信長の意を奉じた奉書ではない。したがって、光秀の丹波支配は信長の方針に沿いながら、独自の判断で行ったといえよう。
翌天正9年(1581)10月、福知山城主の明智秀満が光秀の判物を根拠として、改めて諸式を免除した(以上、「天寧寺文書」)。福知山城の周辺地域は、秀満の手により支配が行われたのである。
■明智秀満のこと
次に、明智秀満について考えてみよう。
明智左馬助は、三宅弥平次秀満のことである。諸書に光春と記すものもあるが、それは誤りと指摘されている。秀満の出自は諸説が唱えられ、なかには美濃で誕生した塗師の子というものもあり(『綿考輯録』)、美濃との関連性をうかがわせる。では、秀満の妻は誰だったのか。
ところで、光秀の娘の1人は、荒木村重の嫡男・村次の妻となっていた。根拠となる史料は『立入左京亮入道隆佐記』であり、「荒木新五郎(村次)は惟任日向守(光秀)むこ(婿)にて候」「まず日向守むすめ(娘)をうけとられ(受け取られ)候」と記されている。
荒木村重が没落すると、光秀は村次から娘を引き取り、重臣の明智秀満と再婚させたという(『陰徳太平記』)。ただし、根拠となる史料は後世の編纂物である。『陰徳太平記』は信頼度の劣る史料の記述であるが、敗者から妻が送り返されることはよくあった。
光秀は秀満に村次と離婚した娘を娶らせ、明智姓を与えることによって、紐帯を強めようとしたといえる。そう考えるならば、秀満が光秀の娘を妻とした可能性は高いかもしれない。
秀満の生年は不詳とされているが、天文5年(1536)誕生説が通説となっている。天正10年(1582)6月に47歳で亡くなったことになる。
『豊臣記』によると、秀満の享年は25歳と記されており、逆算すると永禄元年(1558)の生まれとなる。秀満の父も同年に亡くなっているが、享年は63歳(永正17年・1520年誕生)と明快に記されている(『兼見卿記』)。いずれにしても、秀満の生年を確定するのは難しい。
いずれにしても、福知山城への関心が大河ドラマによる一過性に止まらず、末永く続いてほしいと思う。