宮本武蔵に関する史料は、なぜ極端に少ないのか。その理由を考える
過日、熊本大付属図書館がクラウドファンディングによって、「松井家文書」(熊本藩の筆頭家老だった松井家の藩政史料)の修復とデジタルアーカイブの費用を賄っているとの報道があった。こちら。国も地方自治体も財政が厳しいので、ぜひご協力をお願いしたいところである。
ところで、「松井家文書」には、剣豪として名高い宮本武蔵の史料も含まれている。武蔵に関する史料は極端に少ないが、それがなぜなのか考えることにしよう。
天正12年(1584)、武蔵は無二斎の子として誕生したという。武蔵自身が書いた『五輪書』によると、播磨赤松氏の流れを汲むと書いているが、確証はない。
父の無二は、美作国の国人である新免を姓としていたので、赤松氏ではなく新免氏の可能性が高いと考えられている。生誕地も不明な点が多く、美作、播磨などの諸説があるが、播磨説が有力ではないかと思われる。
吉川英治の小説『宮本武蔵』は多くの人に読まれ、のちに映画やテレビでもドラマが放映された。そこには、剣豪としての武蔵の生涯が豊富なエピソードで見事に描かれている。しかし、水を差すようなことになるが、武蔵の生涯を明らかにする一次史料は少なく、最晩年の史料がわずかに残るだけである。
武蔵の剣豪としての活躍は、『二天記』などの二次史料にしか書かれていない。歴史研究のセオリーからすれば、一次史料(同時代に発給された古文書や日記など)を用いるのが基本なので、あまり好ましくない状況にあるのは事実である。
なぜ、武蔵に関する史料は乏しいのだろうか。一般論でいえば、そもそも歴史の史料が大量に残る条件としては、家が存続することが不可欠である。松井家の場合は熊本藩家老として幕末まで家が残り、その史料を熊本大学に寄贈したのである。
ところが、武蔵は結婚して子孫を残しておらず、養子に伊織がいただけである。したがって、武蔵の代で家が断絶したので、史料が残らなかったと考えられる。武蔵が書状などを所持していた可能性はあるが、死後は何らかの理由で処分されたのかもしれない。
そのような事情もあり、武蔵に関する誤解は数多くある。たとえば、武蔵は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に味方し、慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣では豊臣方に与し、無残にも敗者になったといわれている。
牢人(浪人)だった武蔵には、そのほうがふさわしかったかもしれない。しかし、実際の武蔵は関ヶ原合戦では東軍に、大坂の陣では徳川方にそれぞれ与した可能性が高いという。つまり、勝者だったのだ。
とはいえ、「松井家文書」は宮本武蔵だけでなく、細川藩政を知るうえでの貴重な史料群である。クラウドファンディングの大成功を心から祈念したい。