【「麒麟がくる」コラム】本願寺攻めに失敗し、織田信長に叱責された佐久間信盛。その悲惨な最期とは
■織田信長も怒り心頭
ドラマの中でも少し登場した佐久間信盛。かなり影が薄く、本願寺攻めに失敗し、織田信長から高野山行きを命じられたところで姿を消した。ところで、佐久間信盛とはどういう人物で、どのような最期を遂げたのだろうか。
■佐久間信盛とは
信長と言えば苛烈な性格で知られており、その怒りを受けて追放された家臣も少なくない。林秀貞、安藤守就・定治父子、丹羽氏勝らが追放されたのは、その一例に過ぎない。今回は、なぜ佐久間信盛が追放されたのか、考えることにしてみよう。
信長の家臣は、実に多士済々だった。譜代の家臣はもちろんのこと、度重なる戦争のなかで、新たに家臣を召し抱えた。信長の配下に収まった大名は譜代や新参を問わず、厚い信頼を勝ち得た者が多く、重用された例が多い。
しかし、信長に重用されたからといって、決して家臣たちは油断してはならなかった。先述のとおり、追放されることもあったからだ。それは、織田家譜代の家臣・佐久間信盛も同じだった。では、信盛とはいかなる人物なのか。
大永7年(1527)、信盛は信晴の子として尾張に生まれた。もとは織田信秀に仕えていたが、その死後は信長に従った。信長が織田家の家督を継ぐ際、これを支持したため信長の信任が厚かったといわれている。
以後、信盛は信長の命に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。長篠の戦い、伊勢長島一向一揆、越前一向一揆などは、その好例である。信盛の戦いぶりは、信長から高く評価されていたようだ。
■本願寺との戦争
織田信長と本願寺との戦いは、元亀元年(1570)9月からはじまった。戦いが本格化したのは、足利義昭が備後鞆(広島県福山市)に押し掛けて毛利氏の庇護を受け、さらに本願寺と協力して、信長包囲網を形成してからである。
このとき、信長の期待を一身に受け、本願寺攻めを任されたのが佐久間信盛である。しかし、本願寺の抵抗はなかなか粘り強く、なかなか屈することがなかった。加えて、別所、波多野、荒木ら諸将が本願寺などと結託し、各地で信長に反旗を翻すなど、戦いは混迷を深めるばかりだった。
ところが、別所、波多野、荒木ら諸将が次々と軍門に降り、天正8年(1580)に至って、ついに本願寺は信長に屈した。同年8月、顕如が大坂本願寺を退去し、10年にわたる抗争は終結したのだ。
■信盛の処分
戦いが終わったものの、天正8年(1580)8月、佐久間信盛は信長から19ヵ条の折檻状を突きつけられ、これまで築いた地位を失った(『信長公記』)。主たる理由は、本願寺攻略の失敗だ。
信盛は織田家譜代の家臣であり、信長家臣の中でも重んじられていた。しかし、その信盛でさえも、非常に辛辣な言葉で厳しい評価がなされている。その概要を確認しておこう。
真っ先に信盛が非難されているのは、5年もの本願寺攻略において、まったく成果を挙げていないことだ。信長は世間が不審に思っていることは疑いなく、筆舌に尽くし難いという感想を述べている。それだけではない。
信盛は本願寺に調略を行うなど努力することもなく、ただ漫然と対処していたことを非難された。信長の激しい苛立ちが理解される。
もちろん、信長が怒る理由はあった。信長は信盛を取り立てて、三河など7ヵ国の武士を与力として付けるなど、大変な厚遇をしていた。にもかかわらず信盛がこの体たらくだったので、信長は怒り心頭だったのだ。
一方において、信長は羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、池田恒興、柴田勝家の活躍ぶりを称賛した。信盛もいたたまれない気持ちになったに違いない。
信盛への非難はまだまだ続く。信長は信盛に対して、自分の家臣に加増をせず、新しく家臣を召し抱えることもなく、蓄えに執心してけち臭いなど、およそ武篇道に沿った行動をしていないと叱責の言葉を続けた。ほかにも、信盛は信長に言い訳や口応えもしていたらしい。
当主と家臣との基本的な関係は、御恩と奉公だ。家臣は当主のために懸命に働き、当主はその奉公に報いて恩賞を与えた。信盛はそれをしていなかった。また、武篇とは戦場で勇ましく戦うことを意味したが、やがて戦争にかかわる心構えや準備を指すようになった。まさしく信盛には、武篇道が欠けていたというのだ。
■晩年の信盛
この直後、失脚した信盛は長男・信栄とともに高野山(和歌山県高野町)へ向かい、出家の生活を余儀なくされた。大変厳しい処分であったが、打ち続く戦いの中で、「使えない人材」は淘汰されたということになろう。
この翌年、信盛は紀伊国熊野で非業の死を遂げる。なお、異説によると、十津川(奈良県十津川村)の温泉で病没したという説もある。
ただ、子の信栄は、2年後に許されて織田信忠(信長の子)に仕えた。信栄はのちに不干斎と号し、晩年は豊臣秀吉、徳川秀忠の御伽衆として仕えた。
こうした例を挙げるまでもなく、信長の家臣は絶えず強いプレッシャーにさらされ、いつその地位を失うか怯えなくてはならなかった。それゆえ信長に叛旗を翻す者も少なくなかったのだ。