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バドミントン・リオ五輪代表 佐々木翔とは、こんな男 その1

楊順行スポーツライター
五輪内定選手決定記者会見で。左から山口茜、佐々木翔

「男子シングルスを、いろいろな人の気持ちを背負って、しっかりやらなくては……という気持ちが強かった。桃田のオリンピック出場がむずかしいというのは報道で知るしかなかったんですが、となると、出るのは自分ということになる。オリンピックに出られなければ、6月の(全日本実業団選手権)大会で引退しようと考えていましたが、それが8月まで延びたということ。もう、そこに向けて走り始めています」

佐々木翔(トナミ運輸)は、自身2度目のオリンピック代表が内定すると、そう言った。世界ランク3位と、日本人トップだった桃田賢斗(NTT東日本)が違法ギャンブル問題で世界ランキングから抹消され、27位と日本勢トップにいた佐々木に、代表のイスが回ってきたのだ。

ササキコールが響いたのは前回、12年のロンドン五輪準々決勝だ。絶対王者・林丹(中国)にファイナル7対14とリードされたながら、1本1本追い上げる。6連続得点で13対14。左腕からのスマッシュと、勝負をあきらめない真摯なラリーが、目の肥えた観客の魂を揺さぶった。ササキ! ササキ! この大会で、日本初の銀メダルを獲得した女子ダブルスの藤井瑞希が、のちに明かしてくれたことがある。次が私たちの試合なのに、翔さんがあまりにすばらしく、応援にのめり込んで思わず泣いてしまった……。結局16対21で敗れはしたが、日本男子シングルスとしては、五輪初のベスト8だった。

少年時代はどぶに落ち、日本代表からも落ちて……

不器用な人である。

にわかには信じがたいが、小学生時代、飛び越そうとした50センチほどのどぶに、踏み切りを誤ってはまったことがある。北海道育ちだからスキーの腕は確かでも、ほかの運動に関してはどんくさい。リオに何人のアスリートが出場するか知らないが、子ども時代にどぶにはまった選手は、そう多くはないだろう。

だが、ことバドミントンとなると違った。少年団の上級生に負けるのが悔しくて工夫し、練習するうち、めきめきと上達。道内では、ほとんど負けないようになった。オーバーではなく、同学年なら世界チャンピオンにもなれる、と思うようになった。ただ、全国大会に出てみると、びっくりするほどすごい選手がいた。同学年の、佐藤翔治(現日本代表コーチ)である。全小、全中で対戦しても歯が立たない。その佐藤が強豪・関東一高に進むと知り、佐々木も進学を決める。社会人までしのぎを削った2人のコンビは、東京富士短大から社会人のフジチュー(のちMMGアローズ)まで続いた。

この進路も、不器用である。インターハイ単2位、佐藤とのダブルスで優勝という佐々木の実績なら、野球でいえばドラフト1位候補である。その気になれば、強豪大学への進学や強豪社会人からも引く手あまたのはずだ。ところが、進学先の東京富士短大には、バドミントン部さえない。短大の授業を受けながら、関東一高で練習をするという厳しい環境にあえて身を置いた。高校で師事した、渋谷実氏の指導を受けたいがためだ。

この短大時代まで、佐々木は一度もシングルスの王者になっていない。小・中・高・大と全世代のシングルスで優勝する佐藤には、まだまだかなわなかったのだ。そして短大からは、03年にフジチューへ。渋谷氏と親交の深いバルセロナ五輪代表・松浦進二氏が監督を務めていた。ただし、これも不器用……というより、生き方としては決して要領がよくはない。フジチューという企業は確かに、北京五輪を目ざす選手をサポートしていたが、“ドラフト1位候補”なら、日本リーグの1部に属するような大企業を志向するのがふつうだからだ。現に、MMGアローズが2年で休部すると、いっしょに入社した佐藤が移籍したのは、強豪のNTT東日本だ。

だが佐々木は、アローズの休部後は、国体を控えた秋田の北都銀行を選択した。日の当たらない日本リーグ2部のチームで、団体戦などではチームに合流しながら、拠点は東京に置いての日々である。国際舞台で戦うには、決して保守本流ではないし、環境も恵まれてはいない。だが、佐々木はこういった。

「バドミントン部のない短大への進学はひとつの賭けでしたが、高校から大学で指導者が替わるより、ずっと渋谷先生の目の届くところで教わるほうが効率的だと思ったんです。フジチューや北都へ行ったこともそう。ほかの人のしない選択をしたことで、そこから先は自分次第、結果がすべての世界にあえて自分を追い込んだという自覚はありました。バドミントンで生きていくと決めた以上、否応なく結果がすべてですから」

そう、結果がすべてである。だが、北都銀行に所属していた06年。日本代表選考会ともいえる全日本総合選手権で、24歳の佐々木は、当時埼玉栄高校2年生だった田児賢一になんと1回戦で敗退した。前年準優勝の第2シードが、早々に高校生に敗れた波紋は大きく、北京五輪を目ざしていた佐々木は翌年、日本代表から漏れることになる。結果がすべて……。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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