清少納言が、伏見稲荷大社に登って「バテた」シーンは、高校の古文で習っていた?
関東圏の穴場ずらし旅の愛好家、とらべるじゃーな!です。以前に私塾で古文を教えていた時期があります。古文の世界は、少しかじっておくと、旅行の世界が大きく広がります。
大河ドラマ「光る君へ」の放映の最後にある、ゆかりの地を巡るミニコーナー。第21回では、『枕草子』に登場する伏見稲荷大社(京都市伏見区)を訪ねています。
※今回取り上げる『枕草子』153段うらやましげなるものは、高校の参考書に広く掲載されています。
清少納言、伏見稲荷大社に登る!
伏見稲荷大社の鳥居は、現在約1万基。それぞれに奉納した人の氏名が書かれています。この鳥居の風景に惹かれ、連日多数の外国人が詰めかけています。
伏見稲荷大社を訪ね、人の少ない鳥居を見たいという場合、近くに宿泊し、日の出前に訪ねるのがおすすめです。朝7時には混雑が始まります。
伏見稲荷大社は、ふもとの千本鳥居を経て、中腹の四つ辻までが定番のコース(片道約30分)。清少納言は歩を進め、稲荷山山頂の一の峰を目指します(さらに片道約1時間)。
二月午(うま)の日の暁に急ぎしかど、坂のなから(=登り坂の半分)ばかり歩みしかば、巳(み)の時ばかりになりにけり。
清少納言は、明け方(「暁」)にふもとを出て、午前10時ごろ(「巳の時」)には二の峰まで到着したと記しています。
現在なら、登頂を済ませ降りて来られるほどの時間を要していますので、当時は道が十分整備されていなかったのかも知れません(登山道も現在とは異なるルートでした)。
また、鳥居の奉納の習慣が始まったのは江戸時代。清少納言が訪ねた伏見稲荷大社は、数多くの鳥居はまだ見られず、京の南の郊外にある、緑豊かな信仰の山(稲荷山)という風情だったと思われます。
清少納言、暑さに弱音を吐く
上に掲載の枕草子原文には「二月」とありますが、現在の歴では3月。しかし、3月としては運悪く、暑い日に当たってしまったようです。
やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらむものを、何しに詣でつらむとまで、涙も落ちて、休み極(こう)ずるに、
暑さのあまり気落ちし(「わびし」)、なぜこのような日にと思い、疲れ切って休んでいると涙まで出てきてしまいます。
現在の整備された参道ではイメージが湧きませんが、当時は「登山」に近かったのでしょう。
40歳くらいの勇ましい女性に先を越された清少納言
暑さと疲れから、山の中腹で動けなくなってしまった清少納言。
ちょうどそのとき、貴族女性の旅の衣装である「壺装束」(つぼしょうぞく)ではなく、普通の着物を裾をたくし上げた、40歳くらいの勇ましい女性とすれ違います。上り始めた時刻が同じ明け方と考えると、すでに下っているのはかなりの健脚です(当時の40歳は高齢者のイメージ)。
四十余ばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただ引きはこえたる(=着衣の裾をたくし上げた人)が、「まろは、七度詣でし侍るぞ。……」と、道に逢ひたる人にうち言ひて、下り行きしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただ今ならばやと、おぼえしか。
その女性は7回の参拝に挑戦中の猛者で、「これが身にただ今ならばや」(この人の強靭な体が欲しい!)と書き残しました。
同時に、(服装や身分から)普段なら目にも留めないだろうが、と嫌味を言うのも忘れていません。この辺が清少納言らしいところで、「光る君へ」で演じるファーストサマーウイカさんは、この辺をうまく表現しているように思います。
このほか、枕草子には、中宮定子や弟の隆家、清少納言本人が登場する、まだ満ち足りていた頃の定子周辺の景色が描かれています(下のサイトで【清少納言の機転】の項目をご覧ください)。
古文テスト対策問題100題 「光る君へ」関連回も掲載(受験ネット)
ブラタモリも伏見を訪ねています。清少納言、豊臣秀吉、そして現代人の目から伏見を見るのも興味深いです。
【ブラタモリ京都伏見・全ロケ地】タモリさんが伏見城と秀吉の痕跡を探る #37(とらべるじゃーな!)