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【「鬼滅の刃」を読む】遊郭は各地にたくさんあった。代表的な遊郭6選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
吉原遊郭の吉原大門跡。(写真:イメージマート)

 「鬼滅の刃」遊郭編は、まったくの空想世界だが、実際に遊郭は各地に存在した。「遊郭編」の予備知識として、そのうち代表的な遊郭を6ヵ所紹介することにしよう。

■大坂新町

 大坂新町は17世紀初頭に成立した花街で、大坂唯一の公認遊里として発展した。大阪市西区新町に所在し、瓢箪町、佐渡島町、新京橋町、新堀町、吉原町で形成された。

 これらの町をまとめて新町という。新町は一般住民区から隔離した特別な区画で、周囲を溝で囲み通行は一方口だった。通行口は大門という。

 大坂新町は、揚屋遊びではトップクラスの評判だったといわれている。

 小天神(遊女の階級で2番目)以下の中・下級妓や芸子は、遊興場所の茶屋(客に芸者・遊女を呼んで遊ばせた家)を利用していたが、ほかよりも優れていたという。

 近世中期以降、大坂新町は私娼街の発達により衰退した。

■京都島原

 京都島原は、寛永17年(1640)に成立した花街で、京都で唯一の公認遊里として発展した。京都市下京区に所在し、上之町、下之町、太夫町、揚屋町などで形成された。

 島原も一般住民区から隔離した特別な区画で、周囲を溝で囲み通行は一方口だった。通行口は惣門という。

 島原は太夫の揚屋遊びが好評で、元禄年間(1688~1704)までは大いに繁栄した。しかし、妓品の下落などで、祇園・二条・七条・北野の私娼が好まれるようになった。

 明治維新以後、遊興の中心は祇園に移り、衰退の一途をたどっていった。揚屋建築の角屋は、国指定の重要文化財である。

■港崎遊郭

 港崎遊郭は、安政6年(1859)に横浜に開設された。外国奉行は関内の太田屋新田に遊郭の設置を計画し、品川宿の岩槻屋佐吉らが埋め立てと建設を行った。

 それはオランダ公使の要請によるもので、遊女屋15軒、遊女は300人ほどいたという。しかし、その後は何度も火災に見舞われ、移転を繰り返した。岩亀楼は、豪華な遊女屋として知られた。

■長崎丸山

 長崎丸山は、島原の乱後の寛永19年(1642)頃に成立した。現在の長崎市丸山町・寄合町に遊女屋を集めたという。長崎貿易に集まる商人たちを相手に繁栄し、江戸の吉原、京都の島原とともに広く知られた。

 長崎は鎖国下の唯一の開港地だったため、遊女は唐人行、オランダ行があった。丸山遊女の衣装は、富裕な外国人の財政的援助があり、全国一の豪華さを誇った。

■三国湊

 三国湊(福井県坂井市)は港町として知られ、近世初期には遊郭が存在した。上新町の牛頭天王宮の周囲に遊郭が集まると、やがて丸岡藩領の滝谷出村にも遊女町が形成された。

 寛政元年(1790)の上新町には22軒の置屋があった。滝谷出村には長谷川という遊女がおり、俳諧で名を成すなど(俳号は哥川)、かなりの教養を持っていた。

■播磨室津

 播磨室津は港町として知られ、中世初期には遊郭が存在した。『平家物語』にも「室・高砂の遊君」とあり、都落ちして西海に向かう平家が室津に立ち寄ったことがわかる。

 法然が四国配流の途中、播磨室津で遊女教化を受けた図も残る(『法然上人絵伝』)。江戸時代後期は「西の前頭八枚目」という高位にあったので、知られた存在だった。

■まとめ

 ここに挙げたのは、あくまで一部にすぎない。皆さんがお住まいの街にも、遊郭の跡地があるのでは?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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