【札幌市中央区&東区】新しい「苗穂駅連絡通」観察中に気づいた、線路南側の空き地!
先日、惜しまれつつクローズした通称「開かずの踏切」の代わりに、東区と中央区の自動車連絡道路として整備延長された「苗穂駅連絡通」。その延伸部分が(旧ホクレンホームセンターの敷地の南端を経て)北3条通りに合流するところを確認しに行ったところ、1つの異変?に気づきました!
まずは「苗穂駅連絡通」について。
この苗穂駅連絡通は、この3月に全線開通した、中央区と東区を連結する道路です。JR函館本線&千歳線の北側を西に向けて走行した後、先行して完成していた東5丁目の中を南北に突っ切る通りに合流して、北3条通りにぶつかります。
逆から言いますと、永山武四郎邸&三菱鉱業寮の前からの北三条を始点として、鉄路下を通って東に折れ東区に抜けるのですが、近年に建設された道路であるため、立派な道であるにもかかわらず東4丁目と5丁目を隔てる道、つまり昔からの行政区画に影響している道ではありません。(大通より東側にはそうした例が多いのですが。)
ではその境界はと言いますと、すでに建築して70年ほどが経過した歴史的な建造物である岩佐ビルの西側にあります。道はありません笑。一方、東5丁目と6丁目の境は一本東の細い通りです。
この北三条と苗穂駅連絡通が合流したあたりにはかつて道はなく、少し奥まった空間にいくつかの蔦の絡まるビルがあったのでした。
閑話休題。
そして、異変とは?
今回気づいた異変とは、その連絡通が、高架の北側から鉄路を潜ってすぐ南側に入ったところです。
あれ?鉄道南の敷地、左右に何もなく、だだっ広い。
ここは確か、JRバスの関係施設があったはず?
それが消えており、新幹線事業用地であるとの告知があります。
写真フォルダを見たら見逃していましたけど、2022年12月にはもうこの形でした。
でも2021年10月にはまだ、私の記憶の中では慣れ親しんでいたJRバスのスペースとして利用されていたようです。
なるほど、新幹線の駅は現在の札幌駅の東に隣接する事になっていますが、その関連スペースここまで伸びてきているのですね。まさに今はその整備中ですね!
さらに観察をすると、厚生病院を経て苗穂駅の構内に至るまで、線路の南側にかなり幅のあるスペースが続いています。
まだ踏切があった2021年9月には、すでにこのスペースを整理しはじめてしていたようです。
ということは苗穂駅付近まで新幹線関連施設などができる可能性もあるのでしょうか?
これはワクワクします!
ところで、なぜ?
JRにはこのように東西長い区間を、なぜ現在の函館本線や千歳線の南側に持っていたのでしょうか?
その大元は以前からありました。1980年代に札幌駅が高架化した時に、線路全体を北側にずらしたので南側にはJRの敷地の空きができて、時を経てそこが新幹線駅に活用されたのですね。
先ほどの写真を見ると左側(南側)のスペースの境には、かつてここまで鉄道関係エリアだったことを忍ばせていそうな縁石が並んでいるのが見られます。
さらに、なぜ?
札幌駅から東に離れた苗穂駅に至る地点になぜこの南側のスペースは伸びていたかの理由はもうひとつありまして、そのヒントが、列車の車窓から見ることのできる北ガスアリーナ46です。
ここにはかつて北ガス工場がありました。アリーナはその後に立っているわけです。(ちなみに北ガスアリーナは本来の東5丁目エリアと6丁目エリアにまたがっており、住所は北4条東6丁目になっています。)
苗穂駅から北ガス工場まで、専用引き込み線が走っていたのです!
つまり、この北ガスへの引き込み線と、JR函館本線と千歳線の北側移設のために確保してあった南側のスペースが時を経て新幹線関連施設となる。なんとも夢のあるお話ではないでしょうか!鉄道が鉄道に置き換えられるなんて!
これからの宿題。
それがかつての定山渓鉄道の軌道の跡と関連しているのかは、私はまだ調べきれていません。
更にこの北ガスのスペース自体が、その前はサッポロビールの瓶工場があったあたりと重なっているのではないかとにらんでいますが、これも調べなくてはなりません。
歴史は重装的に重なり、札幌中心部であれば、ほとんどの土地の記憶は開拓使時代の記録や記憶に端を発するものが多いのではないでしょうか!
いずれにしても、私の記事では実際にそこを歩いて見たものをアップしていきたいので、またこの地域の古い痕跡たちを探しに歩き回りたいと思います。
(注 写真は特段記述がないものは2023/05今月に撮影したものです)
■苗穂駅連絡通■
札幌市のお知らせ文章は、こちら。
■北海道新幹線工事■
北海道新幹線の工事に関するお知らせなどは、こちら。
ゆべーるの関連記事
★開かずの踏切が永遠に開かなくなる。
★苗穂駅前連絡通とセットの、アリオ空中歩廊。