ケチすぎて織田信長から断罪された男、徳川家康は壊れた厩を放置… 本当にケチだった戦国大名5選
戦国大名の性格はさまざまで、ケチというのもその一つだろう。むろん、ケチというのは理由があって、多くの場合はいざというときの備えだった(戦争や災害への備え)。ケチの逸話の多くが近世に成立したのは、江戸時代にたびたび発布された倹約令の影響もあろう。
「倹約する戦国大名こそずばらしい!」というのは、江戸時代に作られた理想像と考えられるが、非常におもしろくもあるので、私的に5人を選び出してみた。
■豊臣秀吉(1537~98)
秀吉は黄金の茶室を設けるなど、ケチではないような印象を受けるが、決してそうではなかった。小瀬甫庵の『太閤記』には、次のとおり書かれている。
秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった。
その強欲ぶりは、フロイスの『日本史』にも書かれているほどだ。女性に対する執着心も凄まじかったというから、救いようがない。
■徳川家康(1543~1616)
家康は幼い頃からの人質生活で、すっかり倹約生活に慣れていた。座敷で相撲をしているとき、畳が傷まないように裏返しにさせたのは好例である(『駿河土産』)。厩が壊れたときも、そのほうが馬が頑強になるといって修理をしなかった(『明良洪範』)。
とはいえ、家康は百姓だけに苦労をさせてはいけないと考え、あえて白米ではなく麦飯を食べていたという(『正武将感状記』)。家康は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しまなかった。大井川の舟橋にを架けたのも、その一つである(『信長公記』)。「良いケチ」である。
■前田利家(1539~99)
利家が佐々成政と戦った際、妻の「まつ」は備蓄していた金・銀を軍費に充てるよう、利家に進言したというエピソードが残っている。これはいったい、どういうことなのだろうか。
利家は、ドケチで有名であった。利家は軍費を惜しんだうえに、人を召し抱えることを控えるなどしていた。それゆえ、金・銀が蓄えられていたのだ。「まつ」は利家が蓄財に励むのを皮肉ったうえで、利家に金・銀を使うよう助言したのである。その甲斐あって、利家は成政に勝利した。
■黒田官兵衛(1546~1604)
官兵衛は倹約家としても有名で、無用な出費を極力避けた。たとえば、材木の切れ端なども、捨てずに必ず貯めることにしていた。その切れ端は、風呂焚き用に用いられたのである。また、庭には梅の木を植え、そこから収穫される梅を梅干として食用とした。かなりの徹底振りである。
官兵衛は、倹約で貯めこんだお金を貧しい人に施すなどしていた。そうした際には惜しむことなく、大胆に振舞った。その振る舞いぶりは、家臣が諌めるほどであったという。また、いざというときのための戦費としても、蓄えは続けられた。そのため家臣にも倹約を奨励し、家臣もまたそれに従った。「良いケチ」である。
■佐久間信盛(?~1582)
天正8年(1580)、織田信長は大坂本願寺攻めに失敗した信盛に折檻状を送り、高野山(和歌山県高野町)へ追放するという処分を科した。その中で重要なのは、次の一節だろう。
以前から使える家臣に知行を加増したり、あるいは与力を付けたり、新しく家臣を召し抱えたりしていれば、これほどの落ち度(大坂本願寺攻めの失敗)をすることはなかっただろう。(信盛が)ケチくさく、(お金を)溜め込むことばかり考えるから、今回は天下の面目を失ってしまったのだ。
家臣は主のために懸命に戦い(奉公)、主は貢献した家臣のために加増する(御恩)。「御恩と奉公」の関係こそが、主従関係の基本である。信盛は金を溜めることばかり考え、おまけに大坂本願寺攻めに失敗したので、信長は怒り狂ったのである。
◎まとめ
最後の佐久間信盛のみが「ガチ」なケチとして断罪されたが、残りは栄達の道を歩んだ。戦国大名は純粋なケチではなく、家臣や領民のことを考え、いざというときのために蓄財していたのだ。とはいえ、現実の社会ではケチすぎるのも、派手すぎるのも問題なので、バランス感覚が重要といえようか。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】