文禄の役で大失態を演じ、豊臣秀吉から改易を申し付けられた3人の武将
政治資金の問題が厳しく追及され、一部の政治家については辞職せざるを得なくなった。文禄元年(1593)にはじまった文禄の役では、3人の武将が大失態を演じたので、豊臣秀吉によって改易を申し付けられた。その3人の武将の失態を取り上げることにしよう。
◎大友義統(1558~1605)
文禄2年(1594)、小西行長は平壌城の戦いで、明の大軍に包囲され危機に陥っていた。大友義統は行長から救援要請があったにもかかわらず、家臣から「行長は戦死した」という報告を受けたので、撤退を開始した。しかし、それは誤報であり、義統は行長を見捨てるという形になってしまったのである。
この一報を耳にした秀吉は激昂し、ただちに義統を名護屋城(佐賀県唐津市)に召喚した。その結果、大友氏は鎌倉時代以来の名門なので、義統は死罪こそ免れたが、改易となり豊後などの所領を取り上げられた。その身柄は、徳川家康らの大名預けとなり、悲惨な運命をたどったのである。
◎島津忠辰(1565~1593)
島津義久の配下にあった島津忠辰は、文禄の役に際して、島津義弘(義久の弟)に従って出陣する予定だった。しかし、忠辰はこのことに大いに不満を抱き、義弘とは別にしてほしいと秀吉に訴えた。ところが、秀吉は忠辰の申し出を却下したので、忠辰は止むを得ず義弘と行動をともにすることになった。
ところが、忠辰はいよいよ朝鮮半島に到着すると、「病気である」と言って、上陸を拒否したのである。この報告を受けた秀吉は激怒し、忠辰に改易を申し渡すと、その身柄を小西行長に預けたのである。その後、忠辰は行長に従って加徳島に上陸したが、まもなく病気により亡くなったのである。
◎波多親(生没年不詳)
上松浦党の流れを汲むという波多親は、鍋島直茂に従い与力として、朝鮮半島に向かった。しかし、親は直茂の与力になったことが気に入らなかったのか、無断で行動する暴挙に出た。親は直茂の陣営から離脱すると、独立した陣を構えるなどしたので、これが規律を乱す行為として問題視されたのである。
そもそも親は豊臣秀吉が博多(福岡市博多区)に来たときも、遅れて出迎えたので、すでに不興を買っていた。おまけに今回のような事態を引き起こしたので、秀吉の怒りは大爆発した。その結果、親は秀吉から改易を申し付けられ、その身柄は徳川家康に預けられたのである。