【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が「13人の合議制」を牽制すべく置いた、5人の側近とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立したが、源頼家はそれに反発して5人の側近を置いた。5人の側近とはいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■5人の側近とは
源頼朝の死後、後継者となった子の頼家をサポートすべく、「13人の合議制」が成立した。しかし、それはあくまで表向きの話で、実際は頼家を牽制すべく設置されたものだった。
頼家もその点を察知していたので、対抗すべく5人の側近を置いた。頼家はこの5人の側近を通さなければ、決して誰にも会うことがなく、またこの5人に歯向かってはならないと命じていた。
正治元年(1199)4月の『吾妻鏡』の記事によると、その5人とは小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成ら4人の名前を挙げているが、肝心の5人目の名前を欠いている。
同年7月の『吾妻鏡』の記事によると、小笠原長経、比企宗員、和田朝盛、中野能成、細野四郎の名を挙げるが、もともと名前があった比企時員の名前は消えている。その辺りの理由は不明である。実際は厳密に5人ではなく、6人だったのかもしれない
■6人の来歴
小笠原長経(1179~1247)は長清の子で、のちに阿波国守護になった。文治5年(1189)に奥州藤原氏の征伐が行われると従軍し、大いに軍功を挙げた。ただし、彼が側近に選ばれた理由はよくわからない。
比企宗員(?~1203)と同時員(?~1203)は兄弟で、ともに能員の子だった。2人が側近に加えられたのは、能員の妻が乳母を務めていたことと大いに関係があろう。あるいは、能員が送り込んだ可能性もある。
中野能成(生没年不詳)は藤原助弘の子であるといわれているが、その生涯については不明な点が多い。建久3年(1203)に比企能員の変が勃発すると、能成は比企方に与した。
にもかかわらず、能成は北条時政から本領を安堵されるなどし、その後も幕府に召し出された。それゆえ、能成は北条方から送り込まれたスパイだったともいわれている。
和田朝盛(生没年不祥)は、義盛の孫である。頼家、実朝の2代にわたって仕えた。建保元年(1213)の和田合戦で幕府に敗れたが、のちに許された。弓の名手だったと伝わっている。
細野四郎は生没年が不詳で、『吾妻鏡』には「細野四郎兵衛尉」という名で登場する。比企能員の変が勃発すると捕らえられたが、のちに許されたという。その生涯については、ほぼ不明である。
■むすび
頼家はベテランの有力御家人に対抗すべく、5人(実際は6人)の側近を置いた。ただ、なぜこのメンバーだったのはを示す、明確な理由が残されているわけではない。
しかし、彼ら側近はいずれも若く、しょせんは有力御家人に抗しえなかった。いずれにしても、頼家にとってプラスにならなかったが、そこには『吾妻鏡』の作為も考慮する必要があろう。