創作に執念を燃やし、濃密な時間を過ごした男たちの別れと再会の形 蜷川幸雄と平幹二朗
2016年ももうすぐ終わる。毎年、今年も多くの人たちが亡くなった、などと惜しむものだが、今年ほど喪失感に包まれた年もないような気がする。デヴィッド・ボウイ、プリンス、ジョージ・マイケル、ウンベルト・エーコ、アンジェイ・ワイダ、カストロ、大橋巨泉、千代の富士……と偉人たちが大勢亡くなったうえに、天皇陛下が生前退位の意向を滲ませるお気持ちを表明、SMAPが解散と、世界が完全にパラダイムシフトをはじめているような気がしてならない。
そんな年末、12月29日(木)から3日間にわたり、NHKでは、今年亡くなった演出家・蜷川幸雄と俳優・平幹二朗、ピアニスト・中村紘子と登山家・田部井淳子、放送作家・永六輔と音楽家・冨田勲とふたりずつまとめて回顧録『耳をすませば』を全3回放送する。
“NHKのアーカイブスに保存されている映像やインタビューから掘り起こし振り返る”(番組公式サイトより) もので、貴重な記録やメッセージが放送されそう。開始時間は午前6時25分と早朝だが見逃せない。
どの人物の死もショックであるが、とりわけ、5月の蜷川幸雄(1935年埼玉県生まれ)と10月の平幹二朗(1933年広島県生まれ)、ふたりの死は演劇界を激震させた。演劇を高尚なものとして奉ることなく、あくまで芸能として多くの観客に届くものにしてきた蜷川幸雄が5月に亡くなったとき、長年、共に演劇をつくってきて蜷川演劇になくはならない俳優・平幹二朗が読んだ弔辞は「(前略)あなたがいなくなったあと、この炎(ほむら)を誰に受けとめてもらうのか。まるで、シャーロック・ホームズに死なれたワトソンのように、途方に暮れています。ドラマのシャーロックのように、生き返って欲しい。でも今はあなたの怒りと、熱情を安らげて下さい。さようならは言いません。『タンゴ・冬の終わりに』のなかの一説をささげます。『ぼくらはまた、近いうちに、再会する』蜷川幸雄様。2016年5月16日。平幹二朗」(NHK「かぶん」ブログより)だった。そして半年も絶たないうちに平は亡くなった。
蜷川は以前から心臓病や脳梗塞など病を抱えていて、14年の公演先の香港で倒れ緊急帰国して以来、車椅子に乗りながら演劇をつくり続けていたが、平は亡くなる直前まで舞台に主演し、亡くなったときも連続ドラマにレギュラー出演中だった。予想もしなかった急死に、まるで蜷川の後を追って逝ってしまったような気もしてしまうほどで。蜷川に見出されて俳優の道を歩み、平とも共演経験のある俳優・藤原竜也が「平さん、天国でまた蜷川さんと芝居しますか」と弔辞を述べたことが、演劇に関わる人々の涙を誘った。
なぜ、そんなふうに思わせるのか、それは全17本もの芝居を作ってきた蜷川と平の関係性が凄まじく濃密で深かったからだ。
ふたりが出会ったのは70年代。蜷川幸雄がアングラ演劇活動から商業劇場にフィールドを移し、市川染五郎(現:松本幸四郎)を主役に『リア王』や『オイディプス王』を演出し注目を浴びていた頃、平幹二朗は、所属していた劇団四季がミュージカル作品を増やしはじめ、進路に迷っていた。そのとき、ドラマの撮影で偶然出会った蜷川に平は『あんたの芝居に出してよ』と声をかけた。そして平は三島由紀夫の追悼公演『近代能楽集〜卒塔婆小町』(76年)に出演することになる。それを機に、蜷川×平は、78年、『王女メディア』、79年『近松心中物語』、80年『NINAGAWA・マクベス』、84年『タンゴ・冬の終わりに』と傑作舞台を生み出していく。
『王女メディア』で平は女性を演じた。主人公メディアの夫への嫉妬と執念は、我が子を殺してしまうほどの凄まじさで、その異様なまでのパワーが、男の平が、モビルスーツのような、辻村ジュサブローの重量感のある衣裳に拮抗しながら演じることによって説得力を増し、84年のギリシャ劇の聖地・ヘロデス・アティコス劇場での公演では本場の観客を熱狂させた。
『NINAGAWAマクベス』は、シェイクスピア劇の舞台を日本の室町時代に置き換え、仏壇、ひな壇、満開の桜、歌舞伎の女形のような魔女……と圧倒的に美しいビジュアルと、またしてもそれに拮抗する平の熱情あふれるマクベスが、85年、イギリスのエジンバラの演劇フェスティバルで大好評を博した。蜷川幸雄が”世界のNINAGAWA”と呼ばれるようになったのはここからだ。
演出家と俳優、ふたりで世界に討って出てみごと栄光をもぎとってきた。オリンピックで金メダルを獲得する日本代表アスリートたちと同じ偉業である。
13年ワニブックスプラスアクト11月号で平に取材したとき、こんなことを言っていた。
「(劇団四季の)浅利慶太さんのところで言葉をはっきり言うことを一生懸命追求して、次にもっと破けた表現をしたくなって来た時、なんでもありの蜷川さんと出会ったことで、僕の中から色んなものを引っぱり出してもらえたと思うんです。僕が蜷川さんの思っている以上のことをやると、彼はそれを生かすようにもうちょっと激しい音楽をつけるなど次々に手を加えていくんです。今の彼は引き算もやりますけれど、当時はどんどん付け加える演出家だった。それによって自分も負けないように演じる。お互いがお互いのエネルギーを引っ張り出したんじゃないかと思います」
過熱するふたりのコンビネーションは無敵かと思われたが、平が病気になったことがきっかけに関係は変わり、ふたりはしばらく共に芝居をしなくなる。そこには、激しく熱く、それでいて繊細なふたりの思いがあった。この時期のことに関してはプラスアクトのときのインタビューを引用させてもらう。
蜷川は一緒に仕事をする相手に「心中する覚悟」のような精神性を求めるようなところがあり、若い俳優たちが彼のもとで才能を開花させるのもそれだけ本気で芝居を突き詰めるから。平と蜷川の代表作『タンゴ・冬の終わりに』の平が演じる役の台詞に「(前略)おれたちは単なる俳優とかスタッフとかそういう関係で結ばれていたわけじゃなかった……仲間さ……もっとキザにいわせてもらえば、ひとつの時代を一緒に生きた同志だったんだ、(以下略)」というものがあるが、一蓮托生のような関係を築くことで、最高の演劇が出来上がったのだろう。だが、そういう激しく燃える関係を長く続けるのは困難だ、しばらく間を置いて、蜷川と平は99年の『王女メディア』でようやく再会、その後、00年『テンペスト』『グリークス』、08年『リア王』、11年『ミシマダブル サド伯爵夫人/わが友ヒットラー』、13年『唐版 滝の白糸』など新たな作品に挑むようになり、最後の作品は15年の『ハムレット』だった。そのとき平は、裸で水垢離をするアイデアを自ら出して、毎公演、舞台上で水をかぶった。それはかなりのインパクトがあったし、単なる派手な見せ場というものでなく、役を深く表現することにもなっていた。
蜷川はその年、平とつくり上げた伝説の『NINAGAWA マクベス』を市村正親主演で17年ぶりに再演し、16年、シェイクスピアの『尺には尺を』の稽古途中で亡くなった。
平は15年〜16年にかけて、蜷川版とは趣を異にする『王女メディア』(田尾下哲演出)を演じ(俳優としてのターニングポイントといっていいメディアという役に魅入られていたようで、最後まで追求し続けた)、最後の舞台となった公演『クレシダ』(16年9月〜10月 CATプロデュース)では、若い少年俳優に演技指導している老いた元俳優役で主演した。
『クレシダ』は世代交代(若さと老い)の物語であり、パラダイムシフトの話しでもあり(女性が舞台に立てなかった時代から女性も演じることができる時代になることを予言する)、演じることとは何かを問う物語だった。終盤、平には、少年俳優(浅利陽介〈「真田丸」で小早川秀秋役をやっていた〉)に激しく稽古をつけるシーンや、元少年俳優でいまは劇団の経営にまわっている男(高橋洋/高はハシゴダカ/『逃げ恥』に平匡の会社の社員役で出ていた)との過去を回想するシーンがある。17世紀のロンドンが舞台ながら、日本の演劇人となんら変わらない普遍性があり、少年が女性を演じることの意義は、平が取材で語るメディアを最初に演じたときの思いにも近く、また、老人が若い俳優に稽古をつけるシーンは平が蜷川を演じているように見えてしまった。奇しくも高橋洋は、これまた一時期、蜷川演劇になくてはならない俳優だったのだ。
傍から見ていろいろな縁を感じるこの舞台に立ちながら、平が何を思っていたか聞けないことが残念だし、缶コーヒーのCMで蜷川が『タンゴ・冬の終わりに』の稽古場で檄を飛ばしている映像が流れるたびに、この声がもう聞けないことが残念だ。
蜷川幸雄と平幹二朗の記録に触れると、創作をするうえで、激しい熱情をぶつけあいながらものをつくってきた人間たちは、それゆえに傷つけ合って、離れるときもあるけれど、その思いの強さは互いを呼び寄せ、再び結びつけるときがくると思わせる。
耳をすませば 第一回 激しくそして優しく〜平幹二朗(俳優)・蜷川幸雄(演出家)
NHK 総合 午前6時25分~ 午前6時54分