【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が東国支配の根拠とした以仁王の令旨と源氏の血筋
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、源頼朝が少しずつ東国支配を進めていた。今回は頼朝の東国支配の根拠となった、以仁王の令旨と源氏の血筋について、深く掘り下げてみよう。
■源氏の棟梁たる源頼朝
源頼朝は、前九年・後三年の役で大いに武功を挙げた源頼義・義家の血脈を受け継いでいた。頼朝はその嫡流として、源氏を統率する資格があった。
同時に頼朝は、東国が父祖伝来の由緒を持つ、源氏の勢力圏であると強く認識していたに違いない。
東国の豪族のなかには、古くからの源氏の家人も少なからずいた。つまり、彼らが頼朝に従う下地は十分にあったのだ。
そこで、頼朝は自らが源氏の棟梁たることを主張し、東国の豪族を糾合して御家人とし、勢力の拡大を図ったのである。
むろん、東国の豪族が頼朝のもとに集まったのには、ほかにも理由がある。東国の豪族の多くは平家に不満を持っており、自身の権益を犯される者もいた。
彼らは頼朝に打倒平家を期待し、平家の勢力が東国から一掃されたなら、自身の権益が回復すると考えたのだ。
■以仁王の令旨
頼朝にとっては、自身が源氏の棟梁を標榜するだけでは、まだ物足りない部分があった。
頼朝の東国支配を裏付けたのは、治承4年(1180)に発せられた以仁王の令旨だった。以仁王は天皇家の一員なのだから、その言葉には実に重いものがあった。
以仁王の令旨には、諸国の荘園公領を支配するよう書かれていた。これが恒久的なものなのか、当座のことなのかは不明である。
これにより頼朝は、国衙や在庁官人ではなく、自らが以仁王に支配を命じられたことを支配の正当性として主張したのである。
これまでの東国の豪族は、国衙の在庁を押さえることで、勢力を伸ばしてきた。上総広常、千葉常胤、三浦義澄などはその代表といえよう。
しかし、頼朝は以仁王の令旨を根拠とし、自らをその上位に位置付けることで、彼ら東国の豪族を従える論理としたのである。
■むすび
こうして頼朝のもとには、東国の豪族たちが続々と付き従った。
とはいえ、この時点で頼朝が将来的に鎌倉幕府を打ち立てようと考えていたか否かは不明である。いや、まだそこまで思いは至っていなかったと考えるのが自然である。
少なくとも頼朝は、旧来の律令的な公家政権、あるいはそれを基盤として誕生した平氏政権を否定し、自らの論理で東国支配を志向したのは事実だろう。
そこには御家人制のような独自のヒエラルキーのシステム、そして新たな所領支配のシステムが必要だった。つまり、頼朝の政権とは、多くの豪族に支えられた連合政権的な性格を有していたといえる。