劇団チョコレートケーキ『無畏』、注目の劇団の魅力を探ってみた
「劇団チョコレートケーキ」は、その劇団名から来るイメージとは真逆の、史実を題材とした重厚な作品で注目を集めている劇団である。
たとえば、2014年に読売演劇大賞選考委員特別賞を受賞した『治天ノ君』は、大正天皇にスポットを当てた作品だ。「面白い劇団がある」との評判を耳にして私が初めて観たのも、ヒトラーの若き日を描いた『熱狂』と、ナチスの収容所から生還したユダヤ人を主人公にした『あの記憶の記録』の二本立てだった。
脚本を手がけるのは古川健、演出は日澤雄介だ。このコンビの手にかかると、どれほど歴史上に名前を残した人物であっても(それが功名であれ悪名であれ)、その虚像の皮が一枚また一枚と剥がされ、最終的に「ひとりの人間」にまで解体されていくようだ。
歴史に対する深く冷静な洞察のもと、緻密な資料の検証を踏まえて創り上げられた物語にも、常にどこか温かい目線が感じられる。それが、この劇団の魅力だと感じている。その意味で、今回の『無畏』もまた、そんな「劇チョコ」らしさがいかんなく発揮された作品だった。
新型コロナウイルス感染拡大防止対策を徹底しての上演であり、その一環として、客席数も大幅に減らしている。劇場での観劇が叶わない人のため、5日の公演からは映像配信も行われる予定だ。
主人公は、南京事件の首謀者として極東軍事裁判で裁かれた陸軍大将・松井石根(林竜三)である。孫文を尊敬し、中国の民衆をこよなく愛したはずの彼が何故このような道をたどることになったのだろうか?
その真実を鋭く追及し続けるのが、極東軍事裁判の弁護士・上室亮一(西尾友樹)だ。一見冷徹に、しかし、揺るがぬ信念を持って松井に迫る。
軍功を焦って暴走する者、計算高く調整役に徹する者、疑問を抱きながらも流されざるを得ない者…そして、あくまで「大アジア主義」の理想を信じ続ける松井。末端の兵士に至るまでの「一人ひとり」の思惑が積み重なり交錯することで、結果として個人の力ではせき止めることができない最悪の流れがつくられていく。その過程が、膨大な資料を参照しながら丁寧に描かれていく。
ごくシンプルな舞台機構で登場人物も少ない。それなのに、俳優たちの熱のこもった芝居の背後に、南京の街で起こったできごとが透けて見えるようだ。
松井は「すべての責任は上官である私にある」と繰り返し、極刑に甘んじる覚悟を決めている。だが、上室はなおも追及の手を弛めようとはしない。松井の内面にまで踏み込むやりとりに圧倒され、息を飲む。「責任」という言葉の重みを問いかけ、その安易な使用を戒めてくる作品でもある。
いっぽう、上室とはまた違う形で松井と対峙するのが、巣鴨プリズンで教誨師(きょうかいし)を務める僧・中山勝聖(岡本篤)だ。大義のために生き、軍人としての生を立派に全うしようとする松井。だが、中山は、その松井でさえも本当は持っていたであろう「畏れ」を見透かしているようだ。松井と向き合うその表情から、慈悲と厳しさの両方をのぞかせる。
弁護士の上室と僧の中山、それぞれとの対話が、松井石根というひとりの男の生き様を多面的に浮かび上がらせていく。
タイトルの「無畏」とは、仏教用語で「おそれるところのないこと」の意味だそうだ。松井が好んだ言葉であったという。果たして松井は「無畏」の境地に達することができたのか? 結末で、作者なりの一つの答えが提示されているようだ。
受け取るものの多い作品である。歴史を振り返って、あるいは、現代とも照らし合わせて、改めて考えるべき問題提起があちこちに潜んでいる。「真実から目を逸らさない」ことが結果として贖罪となり、救いに繋がるのかも知れない、そんなことも考えさせられた。
そして、この作品でも結局最後に見えてきたのは、等身大の「人間・松井石根」であったように思う。