【日本酒の歴史】万博にも出品された、明治時代に世界へと羽ばたいた日本酒
明治5年、オーストリア万国博覧会に日本酒が出品され、ついに日本の酒がヨーロッパの地に堂々と姿を現しました。
しかし、実はこの「初輸出」には一抹の真実がこぼれています。
江戸時代、朱印船貿易にて日本酒はすでに東南アジアへと流れ、バタヴィアにおいてはその地の風物詩の一部と化していたのです。
また、ロシア経由でもシベリアを越えてヨーロッパに届けられていたとのこと。
とはいえ、この明治の出品は、日本酒が正式に欧州デビューを果たした瞬間であり、晴れて異国の舞台に立ったのでした。
一方、明治政府は酒税に目をつけ、財政の一助とするべく規制を緩和、さらに誰もが自由に酒造りに挑めるようにしたのです。
その結果、一年の間に三万場もの酒蔵が立ち上がり、さながら酒の一大ルネサンスが巻き起こりました。
しかし時は無情、政府は次第に酒税を厳しくし、酒蔵たちは次々と潰れていくことになります。
1881年には、高知の酒造業者が植木枝盛と共に酒税引き下げを嘆願する運動を起こし、1882年には「大阪酒屋会議事件」が発生します。
酒蔵と政府の攻防はさらに熱を帯び、ついには数十年にも及ぶ苦難の歴史が続きました。
やがて昭和の時代には8000場ほどにまで減少し、戦後はさらに数を減らしていき、平成に至るころには1500場を下回るまでに。
こうして日本酒の物語は時代に翻弄され続けるのでしたが、それでも味わいの一滴には、いにしえの杜氏たちの想いが今も宿っているのです。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社