【日本酒の歴史】近代化の波は酒造にも!明治時代の醸造業について
さて、時は明治も後半、全国の酒蔵にとっては青天の霹靂ともいえる“近代化”という風が吹き荒れる時代でした。
古き良き手作業と長年の勘頼りの伝統技術に、いわゆる“科学”がどかどかと入り込んできたのです。
これまでの酒造りというものは、あくまで自然と共生する、あるいは半ば自然の気まぐれに左右されるような行為でした。
蔵人たちはひたすらに天候や温度、そして酵母たちの“ご機嫌”を窺いながら、日夜にじみ出る汗を無駄にしないよう心を込めて仕込みを行っていたのです。
1890年代に入り、醸造の失敗、すなわち腐造や酸敗といった事態に見舞われないための“安全醸造”という考え方が現れました。
腐造が起きれば、その菌はまるで悪しき記憶のごとく木樽や道具に巣くい、何年にもわたって影響を与えます。
あたかも酒蔵に取り憑いた疫病神のように、じわじわとその苦しみを蔵人たちに押しつけ続けました。
だが、近代政府はそんな事態をよしとはしなかったのです。
戦争で得た資金を元手に、酒税という国庫の大黒柱をより盤石なものとするため、酒造りの科学的近代化を推進しはじめました。
1904年には大蔵省の庇護のもとに国立醸造試験所が設立され、そこでは酵母や麹菌といった目に見えぬ小さな生き物たちが研究されはじめたのです。
さっそく試験所の手によって優れた酵母の分離と培養が行われ、それは協会酵母として全国の酒蔵に配布される仕組みができました。
これにより、どの蔵でも安定した酒質を手にすることができるようになり、「よい酒質はよい酵母から」との信念が、酵母たちの新たな物語を紡ぎだしたのです。
灘の銘酒「櫻正宗」から分離された第1号酵母、そして伏見の「月桂冠」、さらに広島の「酔心」から分離された第2号酵母、第3号酵母が登場し、全国の酒蔵の主人たちは手を叩いて喜び、その名声に興味津々でした。
さて、こうした酵母たちの活躍が伝統の酒造りの波を変えたかと思えば、今度は広島県の酒が、全国清酒品評会にて堂々たる成績をおさめるという快挙が起きたのです。
彼らは灘や伏見に負けじと、軟水を利用した醸造法を編み出し、地方の意地をみせました。
広島杜氏たちはその酒造りの技術を、日本国内だけでなくサハリンやハワイにまで広め、文字通り海を越える活躍を見せたのです。
さらに、酒の消費形態にも変化が訪れます。
酒が瓶詰めされるようになり、それまでの地産地消的な消費が、まるで旅に出るかのごとく流通をはじめました。
1901年には白鶴酒造が一升瓶を登場させ、瓶詰めが普及していくと、酒を量り売りで購入していた人々も、自宅でおちょこに注ぎ、独酌の楽しみを味わうようになったのです。
酔えば酔うほど酒と心が結ばれるのが酒道というものであったものの、瓶詰めの登場はそれに「なま酔い」という新しい飲み方を追加し、酒と心のほどよい距離感を生み出したのです。
そして時代はさらに進み、木樽に代わって琺瑯(ほうろう)製の鉄タンクが登場しました。これも近代化の波によるものです。
木樽に住み着く雑菌の恐れがなく、衛生的で安定した酒造りが可能になると、それまでの伝統的木樽にある“木香”の魅力と引き換えに、琺瑯タンクの普及が進みました。
とはいえ、平成に入り再び木樽が見直される流れも生まれ、まさに木樽と琺瑯の対立は近代化の波がもたらした一大騒動といえるでしょう。
こうして見てみると、明治から昭和、そして平成へと、酒蔵たちの挑戦と模索は続き、現代の日本酒文化の礎が築かれていったのです。
古き伝統と新しき技術、その双方に揺さぶられながらも、ただ「よい酒を」という蔵人たちの情熱が今なお息づいています。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社