【日本酒の歴史】西洋からの新たなライバル出現!明治時代の人はどのようなお酒を飲んでいたのか
明治の世、日本の酒造りは一種の大地主たちのサバイバル舞台でした。
そう、彼らは米の使い道に悩みながらも、ふと気づいたのです。
備蓄米や余った米が古びてしまうより、自前の酒蔵で酒造りに活用するほうが遥かに賢明である、と。
こうして幾多の酒蔵が生き残り、さらには「大メーカー」として現在の日本酒業界を支えるまでに至ったのです。
そして、酒造りが盛んな地方では、食用米ではなく酒造りに適した米の研究が盛んに行われるようになりました。
1860年代に岡山の友清が「伊勢錦」、続いて岸本甚造が「備前雄町」を選抜するなど、名高い酒米の開発が相次ぎ、酒蔵は自らの技術をますます研ぎ澄ませていったのです。
とはいえ、技術はまだ試行錯誤の段階であり、良質な米を用いたところで発酵中に腐造してしまうことも珍しくありませんでした。
このような事態を重く見た政府は、情報交換と技術向上のため、品評会や鑑評会の開催に乗り出すのです。
しかし、明治の日本酒界に降りかかる試練はこれだけではありませんでした。
明治政府の欧化政策の波に乗り、ビールやワインが新たな競合として参入してきたのです。
ビール醸造メーカーが次々と酒造業界に足を踏み入れるも、酒蔵たちは自分たちの酒とは異なるビールの存在を快く思わず、取り扱いを拒む姿勢を見せました。
政府もまた、ビールやワインに軽い税をかけ、日本酒には容赦なく重税を課したことで、日本酒業界はますます苦境に追い込まれたのです。
明治の初めに芽生えたこの政策が、戦後も日本の酒類消費におけるビール・ワインのシェア拡大を支える下地となりました。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社