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クライフ・バルサの影になった名将。消えたマドリードの伝説

小宮良之スポーツライター・小説家
会見で記者たちに話をするベニート・フローロ(写真:ロイター/アフロ)

 サッカーの世界、光と影は背中合わせだろう。

 1990年代、ヨハン・クライフが率いたFCバルセロナは、“ドリームチーム”の称号を得て、伝説として今も語り継がれる。指揮官だったクライフは、神にさえ準えられる。志向したサッカーはエキセントリックで、スペクタクルで、奇跡的だった。何しろ、リーガエスパニョーラを4連覇しているが、3シーズン連続で最終節に逆転優勝を遂げているのだ。

 しかし、そのクライフ・バルサの眩しい光で影になるチームがあった。

 1992-93シーズン、ベニート・フローロが率いたレアル・マドリードは、伝説になるはずだったのだ。

スペインのサッキ

「スペインのアリゴ・サッキ」

 フローロ監督は、当時そう呼ばれていた。ラモン・メンドーサ会長が、サッキ監督が率いたACミランに敗れ去ったことを悔しがって、匹敵する戦術家を探し、抜擢されることになった。

 フローロはサッキと同じく、プロ選手の経験はない。二十代で地域リーグのクラブを渡り歩いて結果を叩き出し続け、1989-90シーズンに2部B(実質3部)のアルバセテを率い、2部に昇格させる。1990-91シーズンには1部に上げ、一躍、国内で名声が高まった。1991-92シーズンには、1部で7位に押し上げた。弱小チームで攻撃的な戦いを実現したことにより、記者の投票で同シーズンの最優秀監督に選ばれている。

「時計じかけのチーズ」

 パスを回し、攻めまくる戦い方はそう称された。70年代、オランダ代表のエキセントリックな戦いは、当時流行した「時計じかけのオレンジ」をもじっていたが、さらにそれをもじった。チーズはアルバセテのあるマンチェゴ地方のアイデンティティだ。

マドリードに革新をもたらした

 そして1992-93シーズン、フローロは当時40歳の若さで、マドリードに革命をもたらす指揮官として招聘された。サッカー選手歴もなく、指導者としてのたたき上げだった。

「マドリードが契約したのは、名前ではない。トレーニングと指導のアイデアだ」

 フローロは当時、語っているが、過去に選手として無名の人物を指導者に招き入れた前例はなく、革命を起こすために来たのだ。

 その考え方は、マドリードに根付いた因習を次々に打ち壊していった。例えば当時までマドリードはマッチョな性格で、「スローインを攻撃の手段にするのは卑怯」という偏見があったが、スローインによる攻撃を採用した。またコーナーキックの種類を増やし、ショートからニアに早いボールを送って仕留める形は一つのパターンになった。守り方も規律を重んじ、ブロックを作り、正しいポジションを取って、カウンターを発動。個人が力の差を見せつけ、最後は王者の意地で勝つやり方が尊ばれてきたのだ。

 保守的な人々は眉をひそめ、反発した。

 プレシーズンは散々。シーズン序盤は仇敵バルサに敗れ、勝ち点を失うことも多かった。とくにメンタルトレーナーを導入し、心理的なケアにも努めたことは、「女々しい」と揶揄された。

保守派の反発

「戦術的に、ロボット化しているという批判もあったよ」

 フローロはそう明かしている。

「しかし例えばミチェルがボールを持ち、ブトラゲーニョがクロスする動きは一つのパターンだったが、中央や左サイドにもスペースは生まれ、後方のイエロも選択肢で、その攻撃練習をすることはロボット化ではない。ロボット化とは、ミチェルにブトラゲーニョにパスを渡すな、観客席に蹴り込め、と制限することさ。状況を予測し、その準備をした上で、インスピレーションがあるんだ」 

 フローロ・マドリードは試合を重ねるたび、調子を上げた。シーズン途中から22試合負けなし。バルサとのリターンマッチは、本拠地で返り討ちにした。

「クライフのバルサがいいプレーを見せると、私も楽しくなる」

 当時、フローロはそう言って、敵に塩を送った。

 彼は駆け引きを楽しんでいた。例えばバルサのスペクタクルの策源地がロナウド・クーマン、ジョゼップ・グアルディオラのパスにあると見抜くと、イバン・サモラノを前者に、ブトラゲーニョを後者につけ、パスを遮断。フリスト・ストイチコフ、ミカエル・ラウドルップへの“弾薬と糧食を断ち切った”のである。

「フローロ監督の予測通り、試合は動き、指示を守ることで勝つことができた」

 多くの麾下選手は口をそろえ、ジョゼ・モウリーニョ監督にも通じるカリスマを持ちつつあったのだ。

最終節の不運

 しかし最終節、首位で迎えたアウエーのテネリフェ戦で、フローロの神通力は消えていた。選手の動きは明らかに重かった。優勝の重圧だろう。一発を放り込まれ、リードを許す。

 そこからはフローロ・マドリードらしく攻めに転じた。少なくとも、3度のPKが見逃される不運があった。そのうちカウンターを食らい、2失点目で万事休した。

 結局、勝利を収めたバルサが逆転で連覇を果たしたのだ。

 実は前のシーズン、レオ・ベンハッカーに率いられたマドリードは同じく最終節にテネリフェに敗れ、クライフ・バルサに優勝をさらわれている。この時も、決定打となる得点がオフサイドで取り消される誤審で、逆転負けしていた。2年続け、同じ場所での悲運だった。

 結局、運を持っていたクライフは英雄となって、当時のバルサは伝説と化した。

 リーガを逃したフローロだが、スペイン国王杯でバルサを撃破して優勝し、次のシーズンも監督を続けることになった。しかし1993-94シーズンは、スペインスーパーカップでバルサを破って戴冠も、国内リーグでは5-0で敗れる失態で、スペイン国王杯ではまたもテネリフェの前に散り、シーズン途中で解任された。

 光り輝く伝説を残したのは、クライフ・バルサだ。

 しかし、フローロは影だったのか?

 マドリードを解任された後も、フローロはヴィッセル神戸、モンテレイ、ビジャレアル、バルセロナSC、カナダ代表など各国で10チームを率いた。随所で有能さを証明。指導者人生として、一点も曇りはない。なにより、マドリードでもたらした改革はその後、実を結び、スローイン(2001-02シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ決勝、前半にロベルト・カルロスのロングスローからラウール・ゴンサレスが抜け出し、隙をつくシュートで先制した)やFK、CK、そしてカウンター戦術は”始まり”になったとも言える。

 それは光の軌跡だ。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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