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【戦国こぼれ話】西国の太守・毛利元就は本当に天下を望まなかったのだろうか。その謎を考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:アフロ)

 今年は東京都議選や衆院選があり、政治家はまさしく「天下」を望んでいる。戦国大名の毛利元就は、天下を望まなかったといわれているが、果たしてそれは事実なのだろうか。

■天下を望まなかった元就

 安芸国の戦国大名から中国地方の太守となった毛利元就(1497~1571)は、「我、天下を競望せず」と語っている。天下を望む戦国大名の中にあっては、異色の存在と思われてきた。

 元就は、幼少時に両親の死に遭遇し、頼みとする兄も早くして亡くなった。当初、兄の子の後見人としてサポートに徹したが、その子も幼くして没した。

 元就は27歳という若さで、毛利家の当主となるが、そこには数多くの苦難が待ち構えていた。とりわけ、国人の井上氏には領地を横取りされるなど、人間不信に陥ったこともたびたびだった。

 元就は神仏への信仰を欠かさず、父の側室・お杉の大方の豊かな愛情に支えられて成長した。やがて、宿敵である出雲国尼子氏などを討伐し、元就は中国地方に覇を唱えた。普通ならば、「いよいよ天下を」と思うはずだ。

 しかし、元就は、この大躍進を「時の運」であると感じていた。のちに「知将」と呼ばれる元就は、これ以上のことを望むことは危険であると感じたのであろう。その後は逆に、子の小早川隆景と吉川元春を中心に据え、いわゆる「両川体制」を確立し、内政に力を注ぐことになる。

 戦国時代には、天下を望んで滅んだ家は数多い。毛利氏が末永く家を保ちえたのは、分をわきまえた行動にあったのかもしれない。

■天下を望んだ元就

 「元就は天下を望まなかった」という話とは矛盾するが、元就が「天下を望んだ」という若い頃の有名なエピソードがある。

 ある日、まだ安芸国の一国人領主にすぎなかった元就は、従者を引き連れて、安芸国の厳島神社(広島県廿日市市)に参拝した。当時の戦国大名は、神仏に加護を願い、一族の繁栄を祈念したものである。その帰路で、元就は従者に対し、何を願ったのか聞いてみた。

 すると、従者は「元就様が安芸国一国を支配できるように祈願した」と答えた。しかし、この答えに対する元就の反応は、意外なものであった。元就は、「なぜ、私が天下の主となることを祈願してくれなかったのか」と従者に言い放ったのである。

 それは、なぜだろうか。元就によると、天下を取ろうと志して、ようやく一国の主となるのがせいぜいなのだから、安芸国の主を志す程度なら、それすらもままならないというのである。つまり、天下を取るくらいの気迫があって、ちょうどよいということである。

 夢を大きく持つことは、非常に重要である。元就は夢を大きく持ち、それに近づくと分をわきまえる。そのバランス感覚が優れていたという逸話だろう。

■結局、元就は天下を望んだのか

 とはいえ、元就が天下を望んだのか、それとも望まなかったのかは、たしかな史料によってわかるものではない。最近の研究によると、当時の天下は京都を中心とした畿内(将軍や朝廷の影響力がおよぶ範囲)を指すことが明らかになっている。

 元就は朝廷に積極的に奉仕したことで知られているが、上洛して畿内を治めようとした形跡はない。冷酷な現実を突きつけるなら、元就が天下に志を持ったとは考えられないだろう。

 ついでに言うと、近年の研究ではすべての戦国大名が天下を望んだというのは疑問視されており、むしろ自国の支配に専念するのが普通だった。戦国大名が天下を望んだというのは、小説やゲームの世界の話にすぎない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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