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[高校野球]ああ……夏の東海大相模に続き、横浜もコロナに泣くとは

楊順行スポーツライター
1980年、夏の初優勝時のエースは愛甲猛だった(写真:岡沢克郎/アフロ)

 無念だったろう。

 神奈川の強豪・横浜が10日、開催中の神奈川県秋季大会の出場を辞退すると同校のホームページで発表した。曰く、

「センバツ甲子園大会につながる現在開催されている秋季神奈川県大会には、これ以上の感染拡大を防ぐために、出場を辞退することといたしました。皆様には、何とぞご理解の程、よろしくお願い申し上げます」

 感染予防のため、学校は夏休み明けからオンラインによる授業を実施しており、生徒は登校していない。野球部にも、複数の新型コロナ感染者が出たという。11日には山手学院との3回戦が予定されていたが、辞退にともない、事実上来春のセンバツ出場はなくなった。

 春夏5回の優勝を誇る横浜だが、最後の優勝旗は2006年センバツ。近年は11年春、15年夏、そしてこの春と優勝している同県内のライバル・東海大相模が実績で大きくリードしていた。そこへもってきて、19年秋には暴力事件が発覚して前監督らが解任。松坂大輔(西武)らを擁して1998年の春夏を連覇した名門のブランドが、色あせかねないピンチだ。

 そこで再建を託されたのが、村田浩明・現監督である。

 渡辺元智・元監督のもとで、2年だった03年センバツに捕手として準優勝。1学年上には成瀬善久(元ロッテほか)、同学年には涌井秀章(楽天)がいた。在学中に渡辺監督から「オマエは指導者になれ」と道を示されたとおり、日体大卒業後に県立霧が丘に赴任して野球部長。白山に異動した13年秋から監督になると、

「グラウンドは草がぼうぼうで、打撃練習が終わったら帰りたがるような生徒たち」

 の野球部を根気よく鍛える。18年夏には北神奈川大会でベスト8まで進出し、「県立で甲子園へ」という夢に少しずつ近づいていた。その矢先の、母校の不祥事だ。なにかできることはないか。母校愛の強い村田監督は悩んだ。なにしろ、20倍という競争率の採用試験を経て手にした県立校教諭である。それでも、恩師・渡辺に「再建には、オマエしかいない」と口説かれ、心は決まった。そうして20年春、横浜野球部の監督となるのである。

今度はわれわれが相模を追う番

 村田監督からは、こんな話を聞いたことがある。

「川崎市での小学生時代、自分たちのチームは(全日本学童軟式野球大会の)神奈川の決勝で負けたんですが、翌日、その結果を伝える新聞記事の下に、渡辺監督のことが書かれていたんです。それが、やけに印象に残っていました」

 1986年生まれだから、小学校6年といえば98年で、横浜が春夏連覇を達成するまさにその年だ。全日本学童の神奈川の決勝は、時期的にはおそらく、6月上旬。松坂らのチームが春の関東大会を制し、前年秋からの無敗の連勝記録を29に伸ばしたころではないか。そしてその横浜が春夏連覇をするにいたり、村田少年に強く残っていた印象が憧れに変わったとしても不思議ではない。

 そして就任2年目のこの夏、初めての神奈川大会を制し、甲子園でも1勝。再建へ確かな一歩を刻んでいたのだ。しかも新チームには、甲子園の初戦、広島新庄戦で劇的なサヨナラ3ランを放った緒方漣やエース候補の左腕・杉山遥希といった1年生ら、有望な選手が残っていただけにやりきれない。村田監督は、こうも語っていた。

「かつては渡辺監督が原貢監督の東海大相模を目標とし、門馬敬治監督が渡辺監督を追って相模が強くなった。今度は私たちが、相模を追う番なんです」

 その相模も、春夏連覇のかかった夏の神奈川大会を辞退し、秋には横浜が……。なんとも、コロナがうらめしい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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