笑福亭仁鶴さんが生き続ける理由
「これだけは言っておきたくて」
笑福亭仁鶴さんの逝去が所属の吉本興業から20日に発表されてから、複数の関係者から連絡をもらいました。
吉本興業でマネージャーを担当した元社員さんや芸人さんなど、こちらが取材で連絡をするのではなく、向こうから連絡をもらうという流れが相次ぎました。
自分が直接見聞きしてきた話を僕のような芸能記者に伝え、故人の正確な生き様を世の中に伝えてもらいたい。
そう周りに思わせる人はなかなかいません。十二分に分かっているつもりではありましたが、改めて、仁鶴さんの大きさを痛感しました。
最近の様子で言うと、お弟子さんたちが日々仁鶴さんの自宅を訪れ、百貨店などで購入したお総菜などを持ち寄って一緒に食事をしていたと聞きます。身の回りのサポートをしていたのはお弟子さんと義理のお姉さん。
お姉さんは2017年に亡くなった妻・隆子さんのお姉さんで、隆子さんの体の具合が悪くなってきた頃に地元の九州から大阪に出てきて、妹の手伝いをしていた。残念ながら隆子さんがいなくなってからも、心身ともに落ち込んでしまった仁鶴さんを支えるために大阪に残り、サポートしてきたと聞きます。
お姉さんがその決断をするくらい、仁鶴さんの落ち込み方は大きかった。一番弱ってしまった時には、家の中を移動するのにも一苦労の状態だったと聞きます。
ただ、そこから1年くらい経つとかなり回復し、お弟子さんたちと食事をしたりできるようになっていったのですが、その中で突然の別れとなりました。
前日まで本当に元気で、いきなりのことだった。それが周りの方々の印象だと聞きますが、驚くほど突然の旅立ちに「昔から孤高のダンディズムを貫いてきた方だったが、それを最後まで体現された。ある意味、見事な引き際だったと思う」と評する近い関係者もいました。
そして、全盛期のウケ方は本当にすさまじかった。これも多くの芸人さんが語っていることです。
そんな中、当時、劇場で音響を担当されていた方の話として聞いたのが「横山やすし・西川きよし」ら稀代の人気者の爆笑漫才がその後も続々と出てきたが、劇場で一番大きな歓声は仁鶴さんに向けられたものだったということでした。
しかも、本人はまだ舞台に登場していない。次の演者の名前を示す“めくり”で笑福亭仁鶴という文字が見えた瞬間に、それだけの歓声があがったと。冷静に数値と向き合っている音のプロの言葉だけに、実に説得力があるものでした。
仁鶴さんが活躍しだした頃は、同じ大阪を本拠地とする松竹芸能に大きく水をあけられ、松竹には「かしまし娘」などスターがゴロゴロいる中、吉本には仁鶴さん以外のスターがいない。その中で仁鶴さんがまさに獅子奮迅の活躍を見せ、今の「お笑いと言えば吉本興業」という時代を作り上げました。
当時を知る漫才師さんの言葉を借りると「カラカラに乾いたぞうきんをさらに絞るくらいの働きぶりだった」といいます。
プロとは何なのか。これでもかと背中で見せてきた。その姿勢に、今も仁鶴さんに特別な思いを抱く芸人さんは多いですが、その中の一人が弟弟子にあたる笑福亭鶴瓶さんです。
「鶴瓶さんいわく『師匠(六代目笑福亭松鶴)はもちろんですけど、今でもしゃべる時に緊張するのは仁鶴兄さん』だと。電話でも緊張するし、仁鶴師匠と話す時は携帯電話では話せない。何かの折に電波が悪くて通話が途切れたらダメなので、固定電話で話す。それくらい特別な思いを仁鶴師匠に持ってらっしゃいます」(吉本興業OB)
芸人さんは「二回死ぬ」と言います。
一回目は肉体的な死。二回目は、その人のことを知っている人がいなくなるという存在としての死。そこまでいって完全な死を迎える。
仁鶴さんがまだまだ長生きすることだけは間違いありません。