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小田原征伐後、織田信雄が秋田に流された事情とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 厳しいサラリーマン社会では、わずかな不手際で地方に飛ばされることもあろう。小田原合戦後、織田信雄は移封を拒否したので、秋田に流された。その事情について考えてみよう。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐を敢行し、北条氏を滅亡に追い込んだ。戦後、秀吉は徳川家康を関東に移し、織田信雄に家康の旧領を与えることにした。しかし、信雄は秀吉の命令を拒否し、改易という厳しい処分を科されたのである。

 改易された信雄は、那須烏山(栃木県那須烏山市)に捨て扶持として2万石を与えられ、のちに秋田実季のもとに送られた。実季は、信雄を八郎潟東岸の天瀬川に住む肝煎喜右衛門に預けると、同所に館を築き住居として与えたという。

 その場所は「ノブコ畠」と称されており、邸中には実を結ばない黄金葉の柿があった。隣の真坂村に産する甜瓜は、切口が織田家の紋章に似ていたので「御文瓜」と呼ばれていたという。

 小玉廣光氏宅には、「織田信雄公館跡」と「井戸跡」が現存する。信雄は1年あまりの滞在の間、小玉家の息女の信と結ばれ、一子をもうけたという。やがて信雄は、上洛のため天瀬川を出発することになった。

 出発の際、妻の信が妊娠していたため、信雄は「もし男児を出産したならば、この横刀を持参し、訪ねて来るとよい。もし女児であるならば、鎌と血の薬の秘法を伝え生計を営むこと」と言い渡したという。

 その後、誕生したのが女児だったので、小玉徳右衛門家には血の薬が、小玉喜右衛門家には信雄の兜に安置された観音経一巻、横刀一振り、弘法大師の自画像一幅がそれぞれ与えられたという。

 信雄の女児がその後どうなったのかは、残念ながら何もわかっていない。この話も史実か否か検討を要しよう。

 その後、信雄の配所は、伊勢朝熊(三重県伊勢市)や伊予道後(愛媛県松山市)に移った。文禄元年(1592)になって、ようやく信雄は秀吉から赦免された。そこには、家康の仲介があった。

 信雄は秀吉の御伽衆となり、大和国内に1万7千石の知行を与えられた。しかし、その後の信雄は数奇な運命をたどり、寛永7年(1630)に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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