【戦国こぼれ話】織田信長の発給した文書が唐津城で展示中。信長の右筆はどんな人だったのか?
■唐津城で展示された織田信長の文書
現在、唐津城(佐賀県唐津市)で織田信長の文書が展示されており、ちょっとした話題になっている。それは天正3(1575)年2月10日付のもので、信長が信濃の武将・小笠原貞慶(さだよし)に宛てたものだ(小笠原氏はのちに唐津藩主になった)。この文書そのものは、『大日本史料』にも翻刻されている。
この文書は信長の自筆ではなく、右筆(ゆうひつ)の武井夕庵(たけい せきあん)が代筆したものである。信長の自筆文書、右筆が代筆した文書について考えてみよう。
■信長の発給文書の特徴
信長の発給文書は数多く残っているが、圧倒的に多いのは右筆の書いたものだ。当時、戦国大名には右筆が存在し、代筆するのが普通だった。信長の自筆書状としては、天正5年(1577)に推定される10月2日付のものがある(「細川家文書」)。宛先は、細川忠興(当時は与一郎)である。
この書状は天正5年10月に信長が大和の松永久秀を攻撃した際のもので、忠興と弟の昌興(当時は頓五郎)の軍功を称えた感状である。ちなみに、この感状は、信長が自筆で書いたことを裏付けられる唯一のものとして有名である。自筆の書状であることから、そこには特別な意味が込められたはずだ。
もう少し、この感状について考えてみよう。
松永氏との戦いで細川忠興・昌興兄弟が活躍したことは、『信長公記』天正5年10月2日条に詳しい記述がある。当時、忠興は15歳、昌興は13歳だったが、2人は松永氏の片岡城(奈良県上牧町)に一番乗りし、高名を挙げたと記されている。この記述から、信長の自筆書状は天正5年のものと判明する。
なぜ信長の自筆とわかったのかというと、この信長の自筆書状には、側近の堀秀政の副状があったからだ。副状とは当主の書状に添えられ、さらに詳しく事情を説明した書状のことだ。その副状には、書状が信長の自筆である旨が書かれていたので、信長の自筆文書であると確定したのである。
■11人もいた信長の右筆
信長の発給した文書は、右筆によるものが圧倒的に多いが、どのような特色があるのか。信長の発給文書は自筆を含めると、12種類の筆跡が確認されている。つまり、信長の自筆を除く、11種類が右筆の書いたものだ。信長の右筆を務めたのは、どんな人物だったのか。
実は、信長の右筆として人名が判明するのは、明院良政(みょういん りょうせい)、武井夕庵、楠長諳(ちょうあん。正虎)のわずか3名にすぎない。残りの8名については不明。この3人が姿をあらわすのは、永禄年間(1558~70)以降であると指摘されている。ただ、この3人の事績については、わからないことが多い。
■右筆の面々
明院良政は生没年不詳。出自すら明らかではない。その初見は、永禄7年(1564)7月のことだ。良政は単なる右筆というだけでなく、信長の側近としても活躍し、政務に携わったことが指摘されている。
武井夕庵も生没年不詳。もともとは、美濃の斎藤氏に仕えていた。信長の配下に収まったのは、永禄10年頃と指摘されている。フロイスの書状に「信長の書記」と記されているので、周囲からもそのように認識されていたのだろう。ただ、夕庵の活躍ぶりは、良政よりも目立つものがあった。
夕庵は信長のもとで各種奉行を務めるとともに、奏者(大名間を取り次ぐ役割)や外交(大名間の交渉)をも担当していた。このような夕庵の役割から、信長の秘書的な役割を果たしたとの指摘がある。信長が亡くなった3年後の天正13年(1585)1月以降、史料上から姿を消す(『言経卿記』)。
楠長諳は永正17年(1520)に誕生し、文禄5年(1596)1月に没した。3人の中では、唯一生没年がはっきりとしている。長諳は楠木正成の子孫を称していたが、事実であるか否かは不明。もともとは松永久秀に仕えており、右筆を務めていたことが指摘されている。
ただ、長諳はほかの2人とは異なり、特に政務に携わることがなく、右筆に専念していた。天正10年6月の本能寺の変後、長諳は羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。長諳は秀吉の右筆を務めていたが、書状を代筆することは少なく、どちらかといえば諸記録や和歌の清書を担当していたようだ。
■自筆文書が少ない信長
このように、信長の自筆書状は少なく、右筆が代筆した書状が多い。右筆の筆跡はすべて異なるので、博物館などで信長の書状を見る際は、筆跡に注意して見学するとおもしろい。せっかく唐津城で信長の文書を見ることができるのだから、ぜひ訪れてほしいと思う。