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中世から続いていた、地方病と人々の戦い②

華盛頓Webライター
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人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。

日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。

この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。

前回はこちら

中世から続いていた、地方病と人々の戦い①

病から逃げるために村を捨てた人々

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1874年11月30日、甲府盆地南西端の宮沢村と大師村(現・南アルプス市甲西工業団地付近)で、戸長の西川藤三郎は、両村49戸の世帯主を招集し、離村の提案を行いました。

両村は地方病が蔓延する低湿地帯に位置しており、村民はこのままでは全滅すると感じ、高台への移転を決意したのです。

しかし、明治維新後間もない当時、居住地を捨てることは封建制度の影響で困難でした。

それでも村人たちは根気強く離村を訴え続け、移転が認められたのは明治末年、30年以上が経過してからのことです。

このような風土病を理由にした村全体の移転は、日本で唯一の事例です。

奇病VS明治政府

1881年8月27日、奇病・地方病の原因解明への第一歩となる嘆願書が、山梨県令藤村紫朗に提出されました

東山梨郡春日居村の戸長、田中武平太が提出したもので、「水腫脹満に関する御指揮願い」と題され、村の中央部のみで発生する病気の原因調査を求める内容だったのです。

「原因は皆目判らず。水か土か、それとも身体か。悲しきかな」と記されたこの嘆願書は、村人たちの切実な思いを代弁していました。

その後、1884年には県が派遣した医師による調査が行われましたが、原因は依然不明でした。

1887年、県病院長の長町耕平が糞便検査を実施し、鉤虫と推定される虫卵を発見しますが、病気との関連性は不明のままだったのです。

同時期、徴兵検査を担当した軍医石井良斉が、特定地域の若者に栄養障害と見られる深刻な発育不良を確認し、事態は国策上も重大視されました。

この報告を受け、軍部は山梨県に対して原因解明を強く求め、地方病対策が本格的に進められるようになったのです。

初めての病理解剖

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明治時代の山梨県で、地方病という奇病の謎に挑んだ吉岡順作医師は、近代西洋医学の観点からこの病気の原因究明に取り組んだ最初期の医師の一人でした。

吉岡は患者の発生地域を調査し、笛吹川の支流に沿って罹患者が分布していることを発見

また、病気が流行する地区には「ホタルを捕ると腹が膨れる」といった迷信も残っており、河川や水が病気と関係しているのではと考えましたが、原因を特定するには至りませんでした。

万策尽きた吉岡は、患者の死後に解剖を行い病変を直接確認する決意をします。しかし当時、解剖は恐れられており、山梨県では事例がありませんでした。

そんな中、1897年5月、末期状態にあった農婦、杉山なかが献体を申し出ます

なかは、40歳を過ぎてから地方病を患い、腹水の症状が進行。治療の甲斐なく状態が悪化しました。

なかは吉岡に病気の原因を尋ねましたが、吉岡は「肝臓に原因があるが、詳しいことは解剖するしかない」と答えるしかありませんでした。

なかは、自らの病が他の甲州の民を苦しめる原因を明らかにしてほしいと、家族に死後の解剖を希望することを伝えます。

家族は驚きつつも彼女の意志を尊重し、吉岡にその旨を伝えました。

1897年5月30日、吉岡は県病院に『死体解剖御願』を提出

これを受けた県病院長下平用彩医師と県医師会は、杉山家を訪ね、命を救えなかった無念を詫びるとともに、なかの勇気に感謝を伝えました

杉山なかは6月5日に亡くなり、翌日、盛岩寺の境内で吉岡らによる解剖が行われました。

この解剖は、山梨県で初めての病理解剖であり、多くの医師が参加。肝臓や脾臓、腸の一部が摘出され、肝臓の表面には白い斑点が点在し、門脈の肥大化が確認されましたこの門脈の異常に、病気の原因解明への手掛かりが隠されていたのです。

この解剖には、後に地方病の原因解明に大きな役割を果たす若き日の三神三朗医師も参加していました。

杉山なかの献身的な行為が、地方病の謎を解く第一歩となったのです。

次回はこちら

中世から続いていた、地方病と人々の戦い③

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