司馬遼太郎さんの言葉がうれしかったね(馬淵史郎) アスリートの名言集 4
●めげそうになっているとき、司馬遼太郎さんが”高知の人間は目先のことにとらわれず、大局を見据える度量がある“と雑誌に書いてくれたんよ 馬淵史郎
1992年夏の高校野球。馬淵史郎監督率いる明徳義塾(高知)は、松井秀喜(元巨人など)のいる星稜(石川)と対戦した。松井といえば当時から怪物といわれ、馬淵曰く「高校生のなかに一人、社会人がまじっているよう」な存在。そういう打線を相手に、勝つためにはこれしかないと、5打席とも松井を敬遠し、チームは結果、3対2で競り勝った。だが世間は、馬淵監督を批判する。潔くないじゃないか、勝負しろ、というわけで、これは社会問題にまで発展した。
馬淵監督はしかし、批判の嵐にじっと耐えた。野球というゲームの大原則は、勝つために最善を尽くすことにある。私は勝つために知恵を絞り、最善の努力をしただけで、決して間違ってはいない……という信念だ。だが世間は、中傷をやめない。学校には「馬淵辞めろ」という手紙がどっさり届き、なかにはカッターの刃が入ったものもあった。そんなとき、作家・司馬遼太郎が、冒頭のような大意の一文を雑誌に寄稿したという。ここでいう「目先のこと」が敬遠を、「大局」が勝利を意味することはいうまでもない。
馬淵はいう。「わしゃ愛媛の出で、厳密には高知の出身じゃないけど、見る人は見ていてくれている、と思ってうれしかったね」。ちなみに馬淵は、司馬遼太郎を愛読する。明徳義塾が念願の日本一に輝くのは、騒動からちょうど10年後、2002年の夏のことである。
●忍者は木の生長に合わせ、毎日それを飛び越えていくんです 加藤陽一
1990年代終盤から2000年代まで、バレーボール全日本男子で活躍し、キャプテンも経験した加藤陽一さん。現在は女子V1リーグのPFUブルーキャッツでコーチを務めている。現役時代、バレーに不可欠なジャンプ力を高めるためにどうしているか、という質問への返答がこれだ。
かつて忍者は鍛錬のため、植えた苗木が小さいうちから、それを飛び越すようにジャンプしていた。すると、毎日何ミリかずつでも、木の生長に合わせてジャンプ力が伸びる。やがて2メートル、3メートルに育ったとしても、毎日積み重ねればそれを飛び越えられるという理屈だ。「もちろんそれは無理なんですが、僕はそのつもりでバレーをやってきました」と加藤さんはいっていたものだ。大学3年で初めて国際試合に出たとき、自分の実力のなさを痛感した。だがそれにへこたれず、逆に「自分がワンランク上がればいいんだ」と、エネルギー源にした。そして日本代表の中心選手となると、02年には安定した収入、地位を捨て、世界最強のイタリア・セリエAでプレー。安定した守備力で、見事優勝に貢献してもいる。
当時、こんなふうにいっていた。「日本の企業スポーツは、まだまだプロ意識が甘い。僕は保証のない世界で挑戦したかったんです」。現役時代、ジャンプして手が届く最高到達点は350センチ近く。毎日飛び続けていれば、大きな木も越えられるのかもしれない。
●ずっと気を張っていると、疲れなどは感じないものです。投げていて、体のなかに力がみなぎっている気がしました 松坂大輔
若い日を回想する、松坂大輔投手(中日)の言葉。1998年夏の甲子園。松坂のいた横浜(神奈川)は、準々決勝でPL学園(大阪)と対戦した。試合は追いつ追われつの好勝負となり、延長戦にもつれ込む。11回、16回と、横浜が表の攻撃で勝ち越すたびに、PLはその裏、執念で追いつく。決着がついたのは、引き分け再試合も両者にちらついた17回。2ランホームランで勝ち越した横浜が、9対7で激闘を制している。
この試合の松坂、立ち上がりこそよくはなかった。だが、炎天下で体力を消耗するはずの延長に入ると逆にぐんぐん調子を上げ、その驚異的なスタミナには、PLナインも「やっぱり怪物だ」と脱帽するしかない。そして17回裏、最後の打者を三振に取ったとき。松坂はさすがにぐったりとし、マウンド上でガッツポーズをする余力さえなかった。球数はなんと、250。「投げているときは気がつかなかったんですが、”これで終わりだ“と思うとたちまち、ず〜んという脱力感が襲ってきました」と松坂は語っているが、疲れすら感じないほど集中していたということだろう。この球史に残る名勝負を制した横浜は、準決勝、決勝ともに劇的な白星を重ね、史上5校目の春夏連覇を達成することになる。