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文禄の役で日本軍が朝鮮の人々を捕らえ、首を取り鼻を削いだ蛮行

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに文禄の役がはじまった。文禄の役では、日本が朝鮮半島に攻め込むと、朝鮮の人々を捕らえて連行した。その辺りを詳しく確認することにしよう。

 日本における戦争では、乱取り(人や物資の強奪)が軍事的な慣行になっていた。しかし、日本軍が朝鮮半島に攻め込んだとき、日本軍による乱取りは禁止が命令された。秀吉は長く朝鮮を支配するため、逆に朝鮮人の還住を推し進めたのである。

 とはいえ、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われた。次に、その実態をもう少し詳しく確認することにしよう。

 文禄元年(1592)、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、平塚滝俊(常陸佐竹氏の家臣)が肥前名護屋城(佐賀県唐津市)で留守を務める小野田備前守に書状を送った(「秋田県立公文書館所蔵文書」)。

 滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。その書状には、乱取りの一端が書かれているので、次に関係部分を示しておこう。

 高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。

 内容は、朝鮮半島で捕らえた男女を日本に送ってきたことを示しており、現地で日本軍による乱取りを行った証になろう。朝鮮人の首を積んだ船もあったようだが、滝俊は見たことがないという。朝鮮人の首とは、日本の将兵が軍功の証として、日本へ送ったものである。

 そもそも敵兵の身分がわからないうえに、おびただしい分量になっただろうから、首実検が正確に行われたのか疑問である。首は数だけでなく、敵兵の身分(大将格の首は価値がある)も重要だった。

 敵兵の首を取るのは序の口で、朝鮮半島では日本軍により残酷な行為が行われた。慶長3年(1598)10月に泗川新城で戦いが行われると、島津軍は明・朝鮮の連合軍を相手に大勝利を収めた。その際、城の外に大きな穴を掘って、討ち取った敵兵33,700人を埋めたという。

 そして、その死体から鼻だけを削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。敵兵の耳や鼻を削いで、持ち帰る際に塩漬けにしたのは、腐敗を防止するためだったと考えられる。

 本来、軍功を証明するには、敵兵の首を持ち帰るのが普通だった。しかし、首は非常に重たかったので、首の代わりに耳や鼻を削ぎ取って持ち帰ることもあった。特に、朝鮮出兵で持ち帰った耳や鼻を供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。

 このように、日本軍は朝鮮半島で数々の蛮行を行ったが、このことがかえって朝鮮の人々の反抗心を煽ることになり、最終的に撤退せざるを得なくなったのである。

 『本山豊前守安政父子戦功覚書』は、加藤清正の配下にあった本山豊前守安政父子の朝鮮半島における軍功を書き残したものである。同書には、「男女生子も不残撫切に致し、鼻をそぎ、其の日々塩に致し」と記されている。

 つまり、安政は男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにしたというのである。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず殺戮したので、その数は一度に20,000~30,000に及ぶこともあった。

 なお、このとき取った鼻が日本に持ち帰られ、先述した鼻塚に埋葬されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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