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【「麒麟がくる」コラム】ドクターXの大門未知子も驚愕!明智光秀は医者だったのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
光秀が仕えていたという朝倉氏の本拠・一乗谷。戦国時代の貴重な史跡だ。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■またまたあらわれた光秀の出自に関する新説

 明智光秀の前半生には、実に不明な点が多い。それゆえ、ウソか本当か判断がつきかねる説も数多く残っている。実に悩ましいところだ。近年に至っては、光秀が医者だったという驚くべき説まで提起された。それは、事実とみなしてよいのだろうか?

■新発見の『針薬方』という史料

 光秀が田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたと書いているのは、永禄9年10月20日の奥書を持つ『針薬方』(「しんやくほう」または「はりくすりかた」)という医薬書である。この史料の存在は、これまで知られておらず新発見である。『針薬方』の記述をもとにして、光秀が琵琶湖西岸部を支配していたと指摘されているほど貴重な史料だ。それは、事実とみなしてよいのだろうか?

 ところで、『針薬方』とはいかなる史料なのだろうか。次に『針薬方』について簡単に解説しておこう。

 『針薬方』とは光秀が田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉が医薬に関することを光秀から口伝され、米田貞能がそれを近江坂本(滋賀県大津市)で写したものである。『針薬方』は手紙の裏に書かれたもので、反古紙を利用したものだった。その手紙とは、義昭が国人衆に味方になるよう呼び掛けた内容だが、結局、出すことがなかった。『針薬方』の内容が医薬に関わるものだったので、光秀は医者だったと指摘されている。

 米田貞能は医術によって足利義輝・義昭に仕え、のちに肥後細川氏の家老になった。沼田勘解由左衛門尉は熊川城(福井県若狭市)に本拠を置き、足利義昭に仕官していた。永禄9年(1566)、貞能は義昭が越前に逃れた際、同行したことが知られている。つまり、実在の人物が『針薬方』を書写したことが明らかなので、良質な史料であると評価されている。

■疑問が多い『針薬方』

 とはいうものの、『針薬方』の内容には少なからず疑問が指摘されている。この辺りを確認しよう。

 永禄9年8月29日、義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)へと移動した。同年10月以降、義昭は越前朝倉氏のもとに身を寄せるため、受け入れの可否について交渉を開始していた。そのような非常に緊迫した情勢のなかで、米田貞能が敦賀からわざわざ坂本へ移動し、医薬書を書写する必然性があったのかということだ。

 また、光秀が田中城に籠城していたという史実を裏付ける史料は、まったく残っていない。さらに、光秀が琵琶湖西部を支配していたという史料についてすら、1点もないのである。当該地域に光秀が発給した文書は、皆無なのだ。『針薬方』の記述内容は、戦国時代の近江の状況とかけ離れていると指摘されているくらいである。

 現時点においては『針薬方』の記述内容に不審な点が多く、史料性に疑問があると指摘されている。それらの点を考慮すると、光秀が田中城に籠城したという記述は、ほとんど信用することができない。そもそも光秀が田中城に籠城したという事実は、あったと考えられないのである。

 仮に、光秀が琵琶湖西岸を支配していたとか、田中城に籠城していたと言うならば、信頼できる一次史料(当時の古文書や日記など)で裏付けなくては、誰も納得しないのではないだろうか。

■光秀が医者だったという説

 一方、光秀が医者だったという説は、どう考えるべきなのだろうか。医薬書の『針薬方』の内容が光秀から沼田氏に口伝されたので、光秀は医者だったと指摘されている。テレビの歴史番組では、光秀が産婦人科医だったという説まで披露されている。実は、『針薬方』の記述内容と光秀が越前朝倉氏に仕えていたとの説を絡めて、驚倒すべき説が唱えられた。

 当時、光秀が仕官していたという朝倉氏の本拠・一乗谷(福井市)には、多くの文化人が来訪していた。来訪していた人物のなかには、医師も含まれていた。そのような環境下で、朝倉氏の家臣だった光秀は越前で医薬の知識を得たというが、根拠に乏しく飛躍しすぎである。

 一例をあげると、傷薬の「セイソ散」が「越州朝倉家之薬」と書かれているのは事実であるが、なぜか「朝倉家の秘薬」と飛躍して解釈された。「セイソ散」とは「生蘇散」のことで、中世後期に成立した医学書『金瘡秘伝(きんそうひでん)』には「深傷ニヨシ」と書かれている。武将が合戦などで刀傷や鉄砲傷を負った際、薬として用いていたのだろう。

 大きな問題は「セイソ散」を「朝倉氏の秘薬」と飛躍して解釈していることだ。「越州朝倉家之薬」の解釈は、「朝倉氏が持っていた薬(=セイソ散)」程度の意味だろう。セイソ散は一般的に知られていた薬であり、特別な薬ではなかった。「セイソ散」が「朝倉家の秘薬だった」という解釈は、誤解を招くだろう。

 越前では、医療が発達していたという説も鵜呑みにするわけにはいかない。当時、一乗谷に医師が滞在していたのは事実であるが、朝倉氏が薬剤を開発しており、一乗谷では医療がかなり普及していたというのは飛躍が過ぎるだろう。たしかな史料的な裏付けが必要だと考える。

■当時の人は民間療法だった

 当時の医学は民間療法レベルで、薬草などを調合して服用するのが一般的だった。医者の診療を受けることが可能だったのは、天皇や公家そして戦国大名くらいだった。戦国武将は合戦に出陣し、刀や鉄砲で怪我をする危険性があった。将兵の間では民間療法レベルの医学知識は普及していたはずで、『雑兵物語』にはそうした記述がある。仮に、光秀に医術の心得があったとしても、民間療法程度のものだったと推測される。

 そもそも『針薬方』の奥書には疑問があり、何らかの作意を感じざるを得ない。『針薬方』という史料の記述から、想像を膨らませるのは危険であり、光秀が医者だったという説には疑問が多い。さらに十分な検討が必要なのではないだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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