欧州GⅠ勝ちの武豊&エイシンヒカリのエピソードとエプソムCの見どころ
好メンバーが揃った欧州GⅠに挑戦
2016年5月23日。武豊はフランス、シャルルドゴールの空港に降り立った。米国から大西洋を飛び越えての欧州入り。現地時間21日には米国3冠競走の2冠目・プリークネスS(GⅠ)でラニに騎乗。その後のフランス入りだった。
凱旋門賞(GⅠ)の舞台でもあるこの国に入った理由は日本から遠征していたエイシンヒカリ(牡5歳、栗東・坂口正則厩舎)に騎乗するため。前年の暮れ、香港で香港カップ(GⅠ)を優勝し、GⅠホースになった同馬が、今度は更に西下。イスパーン賞(GⅠ)に臨むため、香港でもコンビを組んでいた名手にお呼びがかかったのだ。
イスパーン賞は例年通りならロンシャン競馬場(現パリロンシャン競馬場)の芝1850メートルで行われる。しかし、この時は同競馬場が改修工事を行っていたため、シャンティイ競馬場の芝1800メートルで代替え開催される事になっていた。
「好メンバーが揃ったし、決して楽ではないでしょうね。ただ、この馬みたいにガンガン飛ばして行くタイプはヨーロッパにいないから、こっちの連中も戸惑うんじゃないですかね?」
フランスでの騎乗経験も豊富な日本のナンバー1ジョッキーはそう言った。実際、パリ大賞典(GⅠ)の勝ち馬で凱旋門賞でも5着だったイラプトやガネー賞(GⅠ)勝ちのダリヤン、フランスダービー(GⅠ)馬で凱旋門賞3着の実績もあるニューベイにブリーダーズCマイル(GⅠ)2着のモンディアリストらレベルの高いメンバーが揃っていた。
「イレ込むと大変だけど、環境のせいかフランスに来てからは落ち着いています。競馬当日も日本よりパドックの周回は短いし、おそらくリラックスして臨めるのではないかと思っています」
そう語ったのは現地で毎日、調教に跨っていた坂口智康。現在は調教師となった彼だが、当時は父・坂口正則の厩舎に所属する調教助手だった。
子供達が見守る中、控える競馬をした理由
実際、レース当日も落ち着いて迎えられたが、一つだけ、気になる事があった。
この日の競馬場にはなんと遠足で500人の児童がかけつけていた。子供達は声をあげて走り回っていた。その様子を見て、果たしてエイシンヒカリがイレ込むのでは?と心配した当方のそれを「取り越し苦労」と言わんばかりに武豊は言った。
「遠足で競馬観戦なんて、日本との馬文化の違いを感じますね……」
ここまで国内外でエイシンヒカリに騎乗して5戦4勝。一見クセ馬とも思える彼を知り尽くしているからこその余裕の発言。外野の当方が余計なお世話を張り巡らせる必要はないと言われた気がしたが、本当の意味でそれを実感するのはゲートが開いてからだった。
好スタートを切ったエイシンヒカリを見て、坂口は「いつもの通り逃げる」と思った。しかし、次の刹那、ヴァダモスがハナを奪いに来た。人気のニューベイと同じA・ファーブル厩舎の作戦かは分からないが、これによってエイシンヒカリは2番手に控える形になった。レース後、武豊はこの時の心境を次のように言っている。
「控えずに逃げればつつかれると思いました。それで(相手を)先へ行かせたところ、エイシンヒカリはムキになる事なく、番手で落ち着いて走ってくれました」
これだけ落ち着き払って走れたのは偶然ではなかった。スクーリングも済ませていたし、レース直前のゲートへ向かう際はG・モッセ騎乗のマイドリームボートに誘導させるように一緒に歩いて行った。徐々に発汗し始めていたエイシンヒカリだが、この武豊のファインプレーで、なんとかスイッチを入れる事なく、レースに臨めていたのだ。結果、2番手で控えた日本の快速馬は、直線に向くや先頭に立った。
独せん場のゴールと、今年のエプソムCの見どころ
ここから後続がどのくらい差を詰めて来るか?と思ったが、その差は縮まらない。それどころか逆に2馬身、3馬身、4馬身とどんどん開き始めた。そして最終的には2着ダリヤンに10馬身の差をつけてゴール。独せん場の勝利に、鞍上は言った。
「ディープインパクトの仔で、フランスで圧勝出来たのは嬉しいです」
日本馬がなかなか頂に達せない凱旋門賞は確かに高き山で、その結果を受け、多くのファンやホースマンまでも“馬場適性の差”を敗因にあげる。しかし、エイシンヒカリだけでなく、過去にはタイキシャトルやアグネスワールドなど、ヨーロッパの馬場を難なくこなした日本馬もいる。また、日本馬だけでなく、アメリカや香港、オーストラリアの馬でもヨーロッパでGⅠを勝った馬は多数いる。彼等に共通しているのは短、中距離路線で活躍したという点。つまり、凱旋門賞をなかなか勝てないのは馬場適性よりも距離適性。2400メートル路線は純粋に欧州勢が強いのだ。それが証拠にヨーロッパの馬はアメリカでも香港でも、オーストラリアでも2400メートル戦線で勝ち馬を多く出しているのである。
逆に考えると、この2000メートル前後の中距離戦線では日本馬が実に強い。近年ではウインブライト、古くはシャドウゲイトやルーラーシップ、そしてこのエイシンヒカリもそうだが、日本でGⅠを勝っていない馬が、海外で大金星を手にする例は一再ならず、なのである。
レース後、シャンティイ競馬場では500人の子供達が「アーシンイカリ!」「アーシンイカリ!」とフランス語流の発音で日本からの遠征馬を讃えてみせたのだが、同馬が日本で初めて重賞を勝ったのは約1年前のエプソムC(GⅢ)だった。今年は明後日の日曜15時45分にこのGⅢのゲートが開く。出走を予定している18頭の中にGⅠ馬はいない。しかし、もしかしたら将来のアーシンイカリが含まれているかもしれないし、それが武豊騎乗のマイラプソディかもしれない。そんな思いを持って見てみるのも、面白いだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)