平家落人の末裔と伝える四国の「阿佐」「門脇」「小松」
源平合戦の最終地、壇ノ浦合戦で平家は敗れ、平家の武将たちの多くは討死した。そうした中、西日本各地には実は密かに平家の武将が落ち延びていたという落人伝説が各地に伝わっている。
とくに四国地方には多く、四国山地の山深いところでは合戦後に逃げ延びてきた平家の落ち武者の子孫であると伝える家はたくさんある。
平家落人の代表、阿波の阿佐家
そうした中で最も有名なのが、徳島県の祖谷(いや)地方の阿佐家である。
壇ノ浦合戦後、平教盛の二男教経は国盛と名を変え、安徳天皇を奉じて祖谷山に逃れ、のち阿波国三好郡阿佐名(現在の徳島県三好市東祖谷阿佐)に住んだと伝える。国盛の長男氏盛は地名をとって阿佐氏を名乗り、子孫は阿波山岳地帯を本拠とする武士団に成長した。
戦国時代、阿佐紀伊守は金丸城(現在の三好郡東みよし町)に拠り、江戸時代は阿佐名の名主として蜂須賀家に従い、徳島藩郷士となった。
現在、三好市東祖谷阿佐に残る阿佐家の屋敷跡は、「平家屋敷」として知られている。幕末に火災によって建て替えられたが、平成12年には徳島県有形文化財に指定されて屋敷が公開されており、同家には国盛が持っていたと伝えらている大小二旗の「平家の赤旗」が残されている。
土佐の「門脇」と「小松」という名字
平教盛は平氏の拠点だった六波羅の総門の脇に邸宅を構えていたため、「門脇中納言」と呼ばれていた。そのため、落人となった子孫は「門脇」を名字にしたという。
有名なのが、土佐国香美郡韮生郷(現在の高知県香美市)の門脇氏で、やはり国盛(教経)の末裔と伝えている。戦国時代には同地の武士として長宗我部氏に仕え、現在も高知県には「門脇」という名字は多い。
この他、「門脇」は島根県東部から鳥取県西部にかけてと、秋田県の仙北地方にも集中しており、やはり平教盛の子孫と伝えている。
高知県安芸市では、実に人口の六分の一が「小松」という名字である。この「小松」も平家の落ち武者の末裔と伝える。
平清盛の長男重盛は、小松谷(現在の京都市東山区)に屋敷を構えていたため「小松殿」と呼ばれていた。重盛は父清盛より先に死去、その子維盛は源平合戦の途中で離脱し那智で入水したとされるが、実は土佐に逃れて小松氏の祖となったと伝えている。
なお、「小松」という地名は各地にあり、小松氏の名字の由来となった場所はこの他にもある。従って、「小松」さんのすべてが平家落ち武者の末裔というわけではない。