【河内長野市】加賀田にある伝大江時親邸跡。大江家の48代当主が発行した小冊子をもとにわかりやすく解説
市の南側の加賀田には、歴史を感じる場所が数多く残されていますね。そのひとつ、岩湧の森に向かう途中には、楠木正成が幼年の頃に大江時親(おおえのときちか)から兵法・闘戦経(とうせんきょう)を学んだという、伝大江時親邸と呼ばれている場所があります。
楠木正成が幼年の頃に兵法を学んだという話で思い出すのは、やはり三日市町駅前にあるこちらの石像ですね。2018(平成30)年と、最近できた像ですが、この像のうち顔が見えるほうが、大江時親。彼が住んでいた邸宅との伝承がある場所が加賀田にあります。
また、6月10日に行われた「甦れ・大楠公親子の絆大河へ」でも、大江時親から学んだ闘戦経を実践に生かした楠木正成の戦いぶりについての講演がありました。
以前、あるイベントでこちらの小冊子「伝大江時親邸跡」を頂きました。この小冊子の中に、邸宅の様子が詳しく書かれていました。
それを再現したものです。現在も生活者がいることもあり、中は非公開。小冊子のおかげでどんなふうになっているのかよくわかりますね。
ただ、外観だけならどんな様子なのか見られると、実際に加賀田の現場に見に行って来ました。公共交通なら、河内長野からバスに乗り、終点の神納(こうの)バス停で降ります。
ちなみにこの神納バス停からは、岩湧の森、四季彩館を経由して岩湧山まで登れます。
岩湧の森までは片道1時間30分の道のりを歩く必要がありますが、大江時親邸までは、10分程度で到着します。
石碑のある道を登っていくと、邸宅が見えて来ました。現在の建物は18世紀前半頃に建てられたと推定されているそうで、歴史的な背景も含め大阪府の指定文化財になっています。
大江邸・大江時親碑と書いてあります。調べてみると元々は全部が茅葺だったものを、大和棟(やまとむね)に改修。茅葺と瓦葺の折衷にしたそうで、河原の部分と茅葺の部分が共存しているのが見えます。ちなみに文化財に指定されたのは平成11年とのこと。
さて、大江家の系図です。源頼朝の側近として有名な大江広元(おおえのひろもと)がいちばん上に書かれていますが、その先祖には平安時代の歌人、大江匡房(おおえのまさふさ)がいます。
広元のひ孫が大江家15代目の時親です。さらにその子孫に戦国大名の毛利元就や輝元、そして長州藩の藩主と続いています。それとは別れた子孫が、加賀田在住ということで家を守っていたそうで、現在は48代目。この方が小冊子を作られたとのこと。
邸宅から見て左側に行くと石灯籠がみえますが、その先に鳥居と石碑が見えます。
があり、鳥居の先には石碑を御神体にしたような神社にみえますね。
一見不思議な光景ですが、これは伝大江時親邸の小冊子によると、大江修理亮遺跡碑と呼ばれるものです。
鳥居をくぐって中に入ってみることにしました。
石碑が御神体の様に祀られています。調べると明治36年に建てられたもので、これは大江時親の子孫で、大江家44代目に当たる大江延次郎が大江時親の顕彰碑を建てたものです。
石碑の前に来ました。碑文の上にある篆額(てんがく)は「徳は狐ならず」と書いてあるそうで、それは陸軍元帥大山巌侯爵が揮毫(きごう:毛筆で文章を書く)したとあります。碑の本文は帝国博物館初代総長の九鬼隆一男爵が作った文章とのこと。碑文の引用は大変なので、小冊子に書いていた要約を引用しましょう。
詳しい説明版がありました。平安時代の歌人、鎌倉幕府の初期と最後に登場し、さらにその子孫が戦国武将として活躍した大江家。歴史的にすごいのと同時に、そういう場所が加賀田に残っているという事がもっとすごい気がしました。
寄付に関する石碑です。「金三百円大江覚次郎」と書いてあります。調べると明治30年代の1円は現在の3,600円ほどの価値があるそうで、それで計算すれば現在の108万円程を寄付したことになります。
こちらには大江時親公とありますね。この時代は南朝の武将として活躍した楠木正成がクローズアップされた頃なので、子孫としてはその正成を指導した師匠のことをもっと知ってもらいたいとの思いで建てたことがうかがえます。
顕彰碑のさらに先に道がありますが、何も情報がないのでそれ以上先にはいきませんでした。
ということで、伝大江時親邸とその横にあった顕彰碑を紹介しました。鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成のことは言うまでもありませんが、その正成に兵法を教えたという大江時親の邸宅とされる場所です。歴史に興味があればぜひ隣の顕彰碑のほうに尋ねてみてはいかがでしょう。
伝大江時親邸
住所:河内長野市加賀田1639
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 神納バス停から徒歩10分