【河内長野市】千早口駅近くの御所の辻、昔は街道のジャンクションでした。では「御所」の意味とは?
大きくて立派な家のことを屋敷と言いますが、その屋敷に天皇が住むと「御所」になります。皇居・吹上御苑にある御所や京都御所などが有名ですね。しかし、そんな高貴ともいえる御所を名乗ったところが、なんと河内長野にあります!
とはいえ、天野山金剛寺や観心寺は、南北朝時代に主に南朝側の天皇が住んでいたり政務を行なっていたのは有名な話なので、それだけなら別に驚きもしません。
ところがそのふたつの寺院ではなく、意外な場所に御所の名前がついているところがあります。それは南海千早口駅近くにある御所の辻です。それはなぜなのでしょうか?
御所の辻と呼ばれている理由を調べてみると、ふたつの伝承があることがわかりました。ひとつめは、南北朝時代の1348(正平3)年に、後村上天皇が五條市の賀名生(あのう)から天野山金剛寺に皇居を移すことになった途中、この付近で一夜を明かしたという説です。
もうひとつの伝承は次のようなものでした。
皇族の姫が高野山に参詣するために高野街道を歩いている途中、この辺りで「神隠し」に遭ってしまいます。村人が総出で探しますが見つかりませんでした。そこで姫の菩提を弔うために、この場所に御堂を建てて、菊と桐の紋章の使用が許可されたとのこと。
大きな石灯籠がありその横に説明版があります。
説明版によると「右かうや左はかうんこうセミち」という道しるべがあり、高野山(かうや)と金剛山(かうんこうセ)の分岐点とのこと。
すぐ隣に大きな道しるべがあります「右 かうや」とはっきり読めますね。
こちらは少しわかりにくいですが、「左はかうんこうセミち」と書いているとのこと。千早口駅の近くで、ここから千早を経由して金剛山に続く分岐点ということを示しているようです。
千早口駅から金剛山までのルートは、現在は主に登山中・上級者の人たちが歩いています。塞の神(猿田彦)を祀っている場所近くから山道が続いています。
そのまま行くと葛城修験の葛城二十八宿第十八経塚に行けますが、途中で山道に入り、クヌギ峠を超えると太井に行けます。太井からさらに山の中に入ると「千早古道」があるそうで、そのまま歩けば千早の集落、金剛山登山口に到達します。
そこからは一般的な登山道・千早本道を登って行けば金剛山の山頂に行けます。
さて、道標のすぐ近くに地蔵堂があります。
こちらです。道標同様に立派な説明版がついています。
説明版によると、火事で周辺が焼野原になったものの、この地蔵だけ焼けなかったとのこと。さらに南北朝時代に岩瀬の関という関所があって、関所で観心寺が関税を徴収していたという興味深い情報もありました。奇しくも現在開催中の、ふるさと歴史学習館の特別展示を連想してしまいました。
ちなみに御堂の大きな石造地蔵は、加賀田村出身の堺の豪商、谷氏一族が江戸時代中期に造立したと言われているそうです。堺の豪商の中に谷正安という人が江戸時代初期に出てきますが、この人の子孫が建てたかどうかは情報がなく、わかりませんでした。
線香立てに菊紋と御宝との表記がありますね。皇族のお姫様の伝承に基づくものです。
地蔵堂の横にも、小さな地蔵が安置されていました。
別の場所に、もう一体ありました。
さらに御所の辻は、観心寺から延命寺を経由した道、ソタ峰越えの道ともつながっているとのこと。ソタ峰という言葉は初めて知りました。ただその道は過去に御所の辻のある千早口駅から延命寺への道と延命寺から観心寺の道として紹介したことがあります。
まとめるとこんなイメージになります。東西の高野街道が合流する河内長野駅方面から紀見峠・高野山方面に続いていた高野街道が、南海千早口駅近くにある御所の辻から道が分かれていて一方は金剛山に向かいます。
それとは別に現在の美加の台付近や延命寺を経由して観心寺に向かう道があったわけで、御所の辻は元々街道のジャンクションということになります。
御所の辻
住所:大阪府河内長野市岩瀬293
アクセス:南海千早口駅から徒歩2分
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