【河内長野市】その先祖は源頼朝の参謀?加賀田で楠木正成に兵法を教えた大江時親、子孫も戦国大名の毛利
南海三日市町駅の駅前に、トップ画像のような石像があります。もうご存じの方も多いとは思いますが、念のためにおさらいすると、これは少年時代の楠木正成(多聞丸)が、大江時親(おおえのときちか)という人物に、兵法を教えてもらっているシーンです。
この像が出来たのは比較的新しく2018(平成30)年だそうで、まだ4年しかたっていないためか真新しくきれいです。教えをもらうために必死になっている多聞丸と、優しく諭すように教えている大江時親。表情が本当にいいですね。
資料によると、多聞丸(正成少年)は、現在の千早赤阪村で誕生したのち、ふたつの場所で連日学んだとか。そのうちのひとつが観心寺で、ここでは龍覚坊という僧から一般教養を学びます。
正成にとって観心寺はゆかりが深く、金堂の造営や五重塔(途中で断念し建掛塔となる)そして死後の首塚が安置されています。
その正成がここで一般教養を学んだ後、毎日8キロもの道を歩いて三日市を経由し、加賀田にある大江時親の家まで行き、そこで兵法を学んだとか。すごく大変そうですが、今でも毎日金剛山に登る人がいますから、あながち不思議なことではありません。
ここで、わざわざ多聞丸が8キロも歩いてまで学んだ理由です。師匠である大江時親は、「闘戦経(とうせんきょう)」と呼ばれる兵法書の内容を多聞丸に教えました。これは国内で現存する最古の日本の兵法書とされ、平安時代の末ごろに作られたそうです。
また時親は、京都で鎌倉幕府の出先機関だった六波羅探題(ろくはらたんだい)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)と呼ばれる、高い役職を務めていた人物でもあったのです。
しかし、それ以上に、時親の出身である大江氏(おおえうじ)に注目する必要があります。大江氏は、古代から続く豪族・貴族の家柄で、歌人や学者が多く出た家です。やがて武士が台頭してくると、兵法にも精通する人物が現れます。
例えば平安後期の人物、大江匡房(おおえのまさふさ)は、源義家(みなもとのよしいえ)に兵法を教えました。義家はその教えを後三年の役の実戦で用いて勝利につながったとか。闘戦経も、この大江氏の家宝であったそうです。
そして、この 匡房のひ孫に当たる人物に大江広元(おおえ の ひろもと)という人がいますが、彼は源頼朝の側近。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場します。具体的には、参謀として、頼朝が幕府を開く前に設置した全国の守護と地頭を提案したともいわれています。
頼朝死後も、鎌倉幕府で北条氏とともに活躍したとかで、後に実権を握る北条義時よりも官位は高く、名目上では幕府将軍の次の立場だったそうです。
そしてこの広元のひ孫にあたるのが時親です。面白いことに、かつて鎌倉幕府創立時に北条氏とともに活躍した大江広元の子孫で、自らも京都にあった幕府機関に所属していた時親。
ここで兵法を教えた少年、多聞丸が、後に楠木正成として鎌倉幕府倒幕に動いたとは歴史の皮肉のような気がします。
時親は、大江一族の中でも広元の次男、李光(すえみつ)の孫にあたりますが、この李光が、毛利氏を名乗ります。時親は安芸吉田荘の地頭職として領地を継承し、さらに子孫に伝えるのですが、時親の9世孫に当たる人物が、後に中国地方を支配した戦国大名の毛利元就です。
中世の守護大名大内氏と、一時は8か国を支配していたという尼子氏に挟まれた小勢力ながらも、最終的にどちらも倒した元就。一連の流れを確認していると、正成も学んだ闘戦経の教えが、元就に身に染みついていて、それを実践したのかなと感じました。
大江(毛利)氏の系図と行ったことを簡単にまとめてみました。
その毛利氏は江戸時代に長州藩となり、幕末に薩摩とともに倒幕運動をおこしますが、そのときも、大江氏伝来の教えが関わったと想像してみても楽しいですね。
なお大江時親が多聞丸(少年時代の楠木正成)を教えたというのは、史実として確定しているわけではなく、あくまで伝承とのこと。それでも地元の三日市小学校区まちづくり協議会が建立したこの石像をじっくり眺めて見ると、実際にあったことのような気がします。
多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像
住所:大阪府河内長野市三日市町
アクセス:南海三日市町駅すぐ