アメリカ深南部「ベースボール・バケーション」第4回 シューレス・ジョーはここに眠る
ジョージア州ロイストンで、「球聖」タイ・カッブの薫陶に触れたぼくは、その足で同じ1900~10年代のもう1人の大スター”シューレス”・ジョー・ジャクソンの故郷であるサウス・カロライナ州グリーンビルを訪れることにした。
グリーンビルはロイストンの北東約100キロに位置しており、クルマでものの1時間で到達できるはずだ。ロイストンでの最後の訪問場所であるタイ・カッブの墓がある墓地を見届けたのが午後2時くらいだったので、そこからグリーンビルに移動するのは造作ないことだが、寸前まで悩みに悩んだ。なぜなら、グリーンビルでもっとも訪れたい場所であった「シューレス・ジョー・ミュージアム」と連絡が取れておらず、かつそのミュージアムに隣接するマイナー・リーグ球団グリーンビル・ドライブのゲームはその日は組まれていなかったからだ。「ミュージアムを取材できずゲームもない。それなのに貴重な時間を費やしてまでグリーンビルに行くべきか?」という訳だ。しかし、最終的にはヒュンダイの小型車のノーズを北東に向けた。恐らく今回を逃したら、生涯グリーンビルに足を踏み入れる機会はないと思うし、ミュージアムがNGでもジャクソンの墓を訪れるだけでも価値はあると判断したのだ。それで、ロイストンから再びカントリーロードを走り、この日の朝アトランタから乗った85号線に復帰、グリーンビルを目指した。
ジョー・ジャクソンは、1919年のワールドシリーズでの八百長事件「ブラックソックス・スキャンダル」に連座し、永久追放となった8人の内の1人だ。ギャングからカネを受け取ったことを認めた彼に対し、少年ファンが「ウソだと言ってよ、ジョー!(Say it ain’t so, Joe!)」と叫んだという神話も生まれた(今は、そういう事実はないとする説が一般的)。また、日本のファンには、WP・キンセラの名作「シューレス・ジョー」をもとにした映画「フィールド・オブ・ドリームス」で、ケビン・コスナー演じる主人公が作り上げた「夢の球場」に、野球に未練を残す亡霊として現れた人物としてお馴染みだろう。
彼は紛れもなく、ベーブ・ルース登場によるホームラン時代を迎える前のメジャーリーグを代表する強打者だった。最盛期に永久追放されたこともあり、そのキャリアはフルシーズンで9年と短いが、通算打率.356はカッブ(.367)、ロジャーズ・ホーンスビー(.358)に次ぐ歴代第3位だ(永久追放がなく現役を長く継続すれば、当然もっと低い通算打率となったと思われるが)。また、1911年には打率.408を記録している。
そして、ジャクソンは球史においてももっともミステリアスなスターのうちの1人だ。絶頂期に球界から離れてしまい持てる能力を発揮し尽くしていないこと、本当に八百長行為を行ったのか事実は闇の中であることなどからだ(この事件の解決をミッションとして初代コミッショナーに就任したケネソー・マウンテン・ランディスは、裁判では証拠不十分で無罪となっていたにもかかわらず、ジャクソンを含む8人を永久追放処分とした)。
また、彼がギャングからカネを受け取ったことは事実のようだが、その背景には、生粋のカントリーボーイで文盲であったため(当時のプロ野球選手には珍しくなかった)契約更改時に不利益を被ることが多く、結果的に吝嗇な球団経営者から報酬を低く抑えられていたと言われており、同情の声も少なくない 。
読み書きができないジャクソンは、遠征先の朝食ではメニューを見る「ふり」をして、どこでも必ずある「Ham & eggs」をオーダーし、夕食では周囲の客の注文に耳をそばだて同じものをリクエストしたという。
こんなエピソードもある。
アウエイでのゲームでのことだ。三塁後方の席に陣取った観客が、彼が文盲であることを知った上でひどい野次を浴びせた。「ミニシッピ(Mississippi)のスペルを言ってみろ!」すると、次の打席で三塁打を放ったジャクソンは三塁に滑り込むと、その観客にこう言い返した。「トリプルのスペルを言ってみろ!」。彼は、長ったらしいMississippiとは異なり、トリプルのスペルはtripleと短く簡単であることも知らなかったのだ。
永久追放処分を受けたジャクソンは、南部のセミプロ球団でプレーを続けた。晩年は故郷グリーンビルで酒屋を経営し、糊口を凌いだという。そして、1951年12月5にこの世を去っている。
グリーンビルに着いた。こじんまりとしているが、マイナーリーグとは言えプロ野球が存在する街だ。その活気はロイストンとは雲泥の差だ。お目当のシューレス・ジョー・ミュージアムは、レッドソックス傘下の1A球団グリーンビル・ドライブの本拠地フルアー・フィールドに隣接している。この博物館はジャクソンの生家を解体&移設したものだ。そのレンガ作りはいかにも19世紀の建築物といった風情で、敷地面積はせいぜい20坪くらいだろうか。平屋のプチハウスなのだ。
残念ながら、このミュージアムは開館日が土曜日の午後だけで、ホームページを見ると「それ以外の曜日での見学希望は事前にご連絡下さい」とある。しかし、渡米前から何度メールしても全く反応がない。「スルーかよ」とその不親切さに落胆していたが、来てみて思った。ぼくが送ったメールも、この小さなミュージアムに職員が出勤しないと確認できない仕組みだったのかもしれない。もし、入館できれば、ジャクソンの幼少期の部屋が再現され、彼のサインボールも展示されていたはずだ。無念だが仕方ない。
お隣のフルアー・フィールドもシューレス・ジョー一色だ。彼の打撃フォームでの銅像が立ち、場内にも大写しの写真が壁にプリントされている。しかし、この球場は美しい。もちろん場内には入れないのだが、「隙間」だらけで美しいコンコースやスタンド、そしてフィールドの芝が外からでもよく見える。それも当然で、2006年オープンのこの球場は、同世代の他のネオクラシックスタイルのボールパーク同様に、大いにチラ見させて興味を引こうという設計なのだ。
次にそこからクルマで約10分の「シューレス・ジョー・メモリアル・ボールパーク」に移動した。ここはその昔、ジャクソンが13歳でセミプロ球団でのデビューを飾った場所だ。「ボールパーク」と言っても、スタジアムではない。スタンドなどなく、単にフィールドがあるのみだ。当時の名称は「ブランドン・ミル・フィールド」で、要は町工場所有の運動施設だったようだ。また、ここでジャクソンはメジャーリーグのフィラデルフィア・アスレチックスに見出されており、コニー・マック監督との契約に至った記念すべき場所なのだ。現在も手入れはしっかりされている。それもそのはずだ。こことロイストンの「カッブ・フィールド」で、毎年交互にカッブ・ミュージアムとシューレス・ジョー・ミュージアムの両博物館関係者による対抗戦が開催されているのだ。
また、そのフィールドからほんの数キロの場所にジャクソンが晩年経営していた酒屋の跡地がある。現在は空き家で、周辺はやや荒んだ印象だ。
ジャクソンゆかりの地、最後は彼の墓地だ。「ウッドローン・メモリアル・パーク」も街の郊外だが遠くはない。メモリアル・ボールパークからは15分のドライブだった。ここは、アメリカ映画などに出てくるような美しい公園墓地で、墓石の代わりに花が添えてある。そして、広い。「東京ドーム(アメリカの片田舎でこの施設を持ち出すのも妙だが)◯個分」という表現を用いるべきと感じるレベルだ。さて、ここでどうやってジャクソンの墓を探そうか?「最後は執念で探し当てた」と言いたいが、そんな非効率なことはしたくなかった。旅先で分からないことは人に聞くに限る。墓地に併設される葬儀場のオフィスを訪ねることにした。そんな厳粛な施設のドアをTシャツ&短パンで叩くことにはもちろん忸怩たる思いがあったが、仕方ない。恐る恐る入って見ると、すぐに受付があった。そこの喪服姿の女性職員はバチ当たりないでたちの東洋人の来場に驚くこともなく、墓地のレイアウト図を持ち出し丁寧に教えてくれた。「このあたりよ、ボールやバットに囲まれているからすぐにわかると思うわ」。Thank you so much.
それで撮れたのがこの写真だ。この下にシューレス・ジョーが眠っているのか。R.I.P.
アメリカ深南部「ベースボール・バケーション」第1回 アトランタ新球場とターナー・フィールドの今 その1