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消滅60年後にメジャー認定されたニグロリーグの故郷を訪ねて&ニグロリーグ博物館長インタビュー(上編)

豊浦彰太郎Baseball Writer
ニグロリーグが誕生したビルに描かれた壁画、小さなフィードも(2024年筆者撮影)

この夏、アメリカはミズーリ州カンザスシティにあるニグロリーグ博物館(Negro League Baseball Museum、以下NLBM)を訪問し、館長のボブ・ケンドリックさんにインタビューしてきた。ニグロリーグは2000年12月に、MLB機構から「メジャーリーグ」としての認定を受けた。今年5月その記録が正式にMLBのそれに統合され、複数のカテゴリーでニグロリーガー達が、通算記録やシーズン記録で歴代1位となった。これを機に、日本のファンにニグロリーグの苦難の歴史や、それが誕生せざるを得なかった社会的背景を知ってもらうことは、それなりに意義があると考えたのだ。

ニグロリーグとは

ニグロリーグ博物館の「フィールド・オブ・レジェンズ」、かつてのスターの銅像が各ポジションに配置されている(2024年筆者撮影)
ニグロリーグ博物館の「フィールド・オブ・レジェンズ」、かつてのスターの銅像が各ポジションに配置されている(2024年筆者撮影)

まずはじめに、「ニグロリーグ」の定義を説明しておこう。4年前、MLBは1920年から1948年までに存在した「ニグロ・ナショナルリーグ」や「ニグロ・アメリカンリーグ」などの7つのリーグを「メジャーリーグ」と認定した(ここでの「メジャーリーグ」はアメリカン&ナショナルの現行2リーグで構成される固有名詞としての“Major League Baseball”(MLB)ではなく、「マイナーリーグ」への対義語として捉えていただきたい。実際、ア・リーグ、ナ・リーグ以外でも19世紀に存在したいくつかのリーグや、1914~15年にのみ運営されたフェデラル・リーグを1969年にMLBは「メジャーリーグ」と認定している)。もっとも、「ニグロリーグ」は2020年の認定以前は具体的な「リーグ」そのものよりも、Segregation(人種隔離)時代における黒人野球全般を示すことが多かったように思う。

野球界において明確にカラーラインが引かれたのは19世紀末だ。それまでは、黒人選手は極めて少なかったものの、皆無という訳ではなかった。しかし、後に史上初の通算3000本安打達成者となり野球殿堂入りする名選手、キャップ・アンソンらの主張で、黒人選手の排除がいわゆる「書かれざるルール」として定着した。そして、それは1947年にジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースでデビューするまで存在し続けたのだ。

NLBMの野球界にカラーラインが引かれたことに関する展示、向かって左にキャップ・アンソンの姿が(2024年筆者撮影)
NLBMの野球界にカラーラインが引かれたことに関する展示、向かって左にキャップ・アンソンの姿が(2024年筆者撮影)

したがって、当時の黒人たちは、選手にせよファンにせよ、自分たちだけの野球界を形成するしかなかったのだ。それは、選手にとっては生活の糧を得るための野球という形態の興業でもあり、相手は黒人プロ野球の球団であれ、セミプロチームであれなんでも良かった。話があれば、どこへでも出かけて行った。単独興業でだけではなくリーグ編成の動きもあったが、経営基盤が脆弱で長続きしなかった。

ニグロリーグ発祥の建物であるPaseo YMCA、1914年の竣工だが現在は綺麗にリノベーションされている(2024年筆者撮影)
ニグロリーグ発祥の建物であるPaseo YMCA、1914年の竣工だが現在は綺麗にリノベーションされている(2024年筆者撮影)

そして、1920年2月、黒人球団のオーナーで自身もかつて名投手だったルーブ・フォスターが、カンザスシティのとある建物(ニグロリーグ博物館から徒歩数分だ)で他の黒人球団のオーナー達と会議を持ち、「ニグロ・ナショナルリーグ」が誕生した。野球史的には、これをもってニグロリーグの誕生とするのが一般的だ。


さて、そのニグロリーグだが、ニグロ・ナショナルリーグ成立後も、リーグの運営そのものはかなりラフだった。資金難の球団は遠征をキャンセルすることも茶飯事だった。選手と球団の契約もいい加減で、引き抜きによる「ジャンプ」と呼ばれる移籍が相次ぎ、とてつもない強豪チームが完成したと思えば、あっという間に瓦解した。試合数も球団によって年間50~80試合と一定でない半面、年間100を超えるオープン戦を、時には国外まで出かけて戦っていた。実際、日本にも1927年と32年にニグロリーグ球団のフィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツが来日している(日本に到着してから対戦相手を探したようだ)。

ニグロリーグ球団ははるばる日本まで遠征したことも(2024年筆者撮影)
ニグロリーグ球団ははるばる日本まで遠征したことも(2024年筆者撮影)

そして、この旅の多さは結果的に各地の有望な選手の発掘に大いに寄与した。当時は、現在ほどスカウト網が発達しておらず、埋もれた逸材も多かった。一方、一般のマイナーリーグは現在のように完全にMLBのファームとして系列化されておらず、独立した運営や育成を行っていた。各地のタレントを吸い上げる仕組みにおいて(それを意図したものではなかったとは言え)、ニグロリーグはMLBより優れていたとも言えるのだ。その仕組みの恩恵もありニグロリーグの技術レベルは相当高く、MLBが黒人に門戸を開放すると、その初期組たちの多くがMVPを獲得し、後年野球殿堂入りしている。

カラーラインを破ったロビンソンはドジャースデビュー3年目にMVPを受賞した(2024年筆者撮影、ニューヨークにて)
カラーラインを破ったロビンソンはドジャースデビュー3年目にMVPを受賞した(2024年筆者撮影、ニューヨークにて)

それだけではなく、ニグロリーグでは斬新なアイデアの採用も多かった。ナイトゲーム(照明灯を地方巡業に持参したようだ)や、ヘルメットの着用(ただし工事現場用)も、その起源はニグロリーグだったとされている。


そんなニグロリーグも、1947年にロビンソンがドジャースに昇格し、カラーライン(人種の壁)が破られると、メジャーリーグ球団から次々にスター級が引き抜かれ骨抜きになり、1950年代に入ると衰退した。


ニグロリーグ博物館はその終焉を1960年としている。この年限りで、最後に残ったニグロアメリカン・リーグが活動を終えたからだ。


ニグロリーグ博物館には、当時の栄華や苦難を今に伝える貴重な写真やユニフォーム、サインボールが数多く展示されている。20世紀初頭は白人スポーツだったMLBは、このような過去を経て、世界中のタレントが競い合う現在の姿へと成長していったのだ。

ニグロリーグの故郷、カンザスシティへ

8月7日午前、ぼくの乗ったLCC便はカンザスシティ国際空港に到着した。テキサスのダラス・フォートワース空港発の早朝便であったため、渡米2日目の時差ぼけもあり、機内で爆睡したとはいえその時間は短く、降機後もしばらく睡眠不足によるフラフラ感は続いた。しかし、空港内の土産物屋で伝説のニグロリーグ球団モナークスのキャップが売られ、バーの壁にもモナークスのイメージ画が描かれているのを見つけた。KCは今もニグロリーグの故郷だということを実感し、次第にテンションが上がってくる。この日は、夜はカウフマン・スタジアムでのロイヤルズ対レッドソックス戦の観戦を予定していたが、その前に立ち寄るべき場所がある。それが、ニグロリーグ博物館だ。館長のボブ・ケンドリックさんの取材アポを取ってある。

NLBMとその周辺(2024年筆者撮影)
NLBMとその周辺(2024年筆者撮影)

ニグロリーグ博物館 は、空港からレンタカーのシボレー・マリブで流して約30分で到着した。ダウンタウンからもそれほど遠くない。あたりは古い街並みが保存されている歴史地区で、ジャズ博物館も併設されている。現地に到着し付近のバーで腹ごしらえし、午後1時のアポ約1時間前に博物館に入った。ここは15年前にも訪れたことがあるが、インタビュー前にひととおり目を通しておきたかったのだ。ケンドリックさんは、すぐ見つけることができた。館長自ら十数人の来館者へのガイド役を務めていた。その語り口はエネルギッシュだ。仕事としての義務感ではなく、本人の情熱とニグロリーグへの愛が語らせている、という感じだ。質問が出てくればさらにトーンは上がってくる。

見学者に熱心に語りかけるケンドリック館長(2024年筆者撮影)
見学者に熱心に語りかけるケンドリック館長(2024年筆者撮影)

結局、このグループへのガイドは1時半近くまでに及び、ぼくとのインタビュー開始時間はその分遅れた。しかし、そのぼくも前のグループに付いてケンドリックさんの話をたっぷり聞かせてもらったので、少しも気にならないどころか、大いに楽しませてもらった。そして、インタビュー開始だ。

ケンドリック館長とニグロリーグ博物館

まずは、ケンドリック館長に彼自身の経歴、そしてニグロリーグの昨日、今日、明日についてお話をうかがった。

ケンドリック館長、インタビュー後に展示ホール前にて(2024年筆者撮影)
ケンドリック館長、インタビュー後に展示ホール前にて(2024年筆者撮影)

豊浦

まずは、ご自身に関して紹介していただけますか。

BK

私のNLBMとの関りは、2003年にボランティアとしてスタートしました。当時、私は地元紙カンザスシティ・スターでマーケティングの仕事をしていたのですが、NLBMの出張展示イベントの企画を担当したのがきっかけです。もともと野球好きだったこともあり、すぐに入れ込むようになりました。その後マーケティングダイレクターを経て副館長に、2012年からは館長を務めています。

出身はジョージア州で、カンザスシティへ来たのは1980年です。バスケットボールの奨学金を得てこちらの大学に入学したのです。育ったのは小さな町で高校に野球部がなく、プレー経験は草野球だけです。

館長として、大統領を含む多くのVIP来客に対応しましたが、もっとも緊張したのは少年時代の憧れであるハンク・アーロンさんをお迎えした時ですかね(笑)。

豊浦

あなとはもともとマーケティング畑の出身なのですね。そも経験も活かしNLBMを全米でも最も成功したNPO法人に育て上げたのですね。今後の計画についてお聞かせいただけますか?

BK

ニグロリーグ誕生が決まった会議が持たれた建物は、ここから徒歩数分の場所に現存ており、現在はバック・オニール・エジュケーション・センターといういわばコミュニティセンターになっているのですが、それに隣接した場所にNLBMを移転させたいと思っています。展示面積も一層広くなりますよ。NLBMは単なるスポーツ博物館ではありません。公民権、社会正義の歴史の観点から、アメリカで最も重要な施設の一つだと思います。

ニグロリーグ発祥の建物の隣に新NLBMを移転させようというプラン(2024年筆者撮影)
ニグロリーグ発祥の建物の隣に新NLBMを移転させようというプラン(2024年筆者撮影)

豊浦

では、そのNLBMが設立された経緯を教えて下さい。

BK

元ニグロリーガーのホーレス・ピーターソンが、ニグロリーグのアイコン的存在であるバック・オニールに「ニグロリーグの殿堂」を作りたいと持ちかけたことがきっかけです。1990年のことでした。ところがオニールはこのアイデアには必ずしも賛成ではなく、「殿堂入りに値する選手はクーパーズタウンの野球殿堂に祀られるべき」と考えたのです。その結果、殿堂ではなく博物館としてスタートしました。最初はワンルームでした。

ニグロリーグの象徴だったバック・オニール(2024年筆者撮影)
ニグロリーグの象徴だったバック・オニール(2024年筆者撮影)

運営は完全に私営でMLBの協力は得ていますが、独立しています。この点ではクーパーズタウンの殿堂博物館と同じです。この度、MLBおよび選手組合から200万ドルの寄付を得ました(筆者注 : 前述の移転プロジェクトへのサポートがそうだ)。

ニグロリーグの興亡

豊浦

ニグロリーグの歴史についてお聞かせください。

BK

1920年にシカゴ・アメリカン・ジャイアンツのオーナーで元一流投手のルーブ・フォスターの呼びかけで、先ほど申し上げた建物で会議が持たれ、7球団によるニグロ・ナショナル・リーグが発足しました。一般的にはこれをニグロリーグの発祥としており、現在のMLBの定義もそれに倣っています。

「ニグロリーグの父」ルーブ・フォスター(2024年筆者撮影)
「ニグロリーグの父」ルーブ・フォスター(2024年筆者撮影)

豊浦

ニグロリーグの球団分布は、東海岸と中西部が中心でした。西海岸にも黒人野球は存在していたと思うのですが。

BK

1946年にウェストコースト・ニグロベースボール・アソシエイションが発足したのですが、長続きしませんでした。興業を支える黒人人口が十分ではなかったことと、発足直後にジャッキー・ロビンソンがドジャースでデビューし、黒人によるプロ野球全体が衰退期に入ったことも影響したと見られています。

豊浦

ニグロリーグの技術レベルに関してお話いただけますか。

BK

間違いなく高かったと言えます。1947年にデビューしたロビンソンは1949年にはMVPに選出されましたが、同年から1959年までの11年間で、ナ・リーグMVPのうち9人はニグロリーグ出身者だったことがそれを証明しています。

もっとも、ナ・リーグとは異なりア・リーグでは黒人選手のMVP誕生は、1963年のエルストン・ハワード(ヤンキース)まで待たねばなりません。これは、当時は現在とは異なり、両リーグは完全別運営でむしろ対立関係にすらあったことも影響しています。ナ・リーグ各球団は、ドジャースのロビンソンが大活躍したことにより、続々とニグロリーグ選手と契約したのですが、ア・リーグではそうではありませんでした。結局、全球団(当時は16球団)が黒人選手と契約したのは1959年で、保守的な街とされるボストンのレッドソックスが最後でした。

ア・リーグ初の黒人MVPエルストン・ハワードの壁画、隣はヨギ・ベラ、ヤンキー・スタジアム周辺にて(2024年筆者撮影)
ア・リーグ初の黒人MVPエルストン・ハワードの壁画、隣はヨギ・ベラ、ヤンキー・スタジアム周辺にて(2024年筆者撮影)

豊浦

トップクラスの選手はそうでしょうが、リーグ内の平均的なレベルの選手たちはどうだったのでしょうか?例えば、イチローや大谷翔平のような野球の歴史に残る名選手を輩出したからと言って、日本のプロ野球の水準がアメリカのメジャーリーグと同等だとは言えないと思いますが。

BK

平均レベルも高かったと思います。現代同様にこの国には偉大なアスリートも優れたアスリートもいました。野球界においても同様です。偉大な選手、それに次ぐ優れた選手たちです。彼らは最も高いレベルのリーグで活躍しました。その場が、白人にはMLBで、黒人にはニグロリーグだっただけです。

豊浦

当時のニグロリーガーが得ていたサラリーレベルはどうだったのでしょう。

サッチェル・ペイジ、アラバマ州バーミンガムのマイナーリーグ球場のバナー(2017年筆者撮影)
サッチェル・ペイジ、アラバマ州バーミンガムのマイナーリーグ球場のバナー(2017年筆者撮影)

BK

エキシビションも含めれば通算2000勝を挙げたとも言われるサッチェル・ペイジのようなスーパースター以外はささやかなものでしたが、多くの選手が何とか野球だけで生活を成り立たせることができたようです。その最大の理由は、公式戦はシーズン80試合程度でしたがが、それ以上の数のバーンストーミング試合を行い、一年中プレーしていたからです。(筆者注:アメリカではメジャーもマイナーも原則としてオフの間はサラリーは支給されない)、ニグロリーガーは一年中収入を得ていたのです。いや、正しくは年間を通じて収入を得るために試合をしていたと言うべきでしょう。

高給取りだったペイジの遠征時の部屋のNLBMイメージ展示(2024年筆者撮影)
高給取りだったペイジの遠征時の部屋のNLBMイメージ展示(2024年筆者撮影)

豊浦

ロビンソンのデビュー以降、ニグロリーグは徐々に衰退して行きました。それについてご説明いただけますか。

BK

端的に言うと、ファンの多くが離れていったからです。MLB球団と同じ都市に本拠地を置くニグロリーグ球団においては、特に顕著でした。モンテ・アービン(筆者注 : ニグロリーグ出身で、後にニューヨーク時代のジャイアンツで大活躍した)はこう言っています。「(ニグロリーグ球団の)ニューアーク・イーグルスは人気が高く、彼らのゲームでは球場はいつも一杯だった(筆者注:ニューアークはハドソン川を挟んでマンハッタンの対岸にある街)。でも、ロビンソンデビュー後はファンはみな彼の応援に行ってしまったね」。

モンテ・アービン(向かって左)、2015年ホワイトハウスにて、隣はウィリー・メイズ、後方に青木宣親の顔も
モンテ・アービン(向かって左)、2015年ホワイトハウスにて、隣はウィリー・メイズ、後方に青木宣親の顔も写真:ロイター/アフロ

これは他都市でも同様でした。。ニグロリーグより、MLBで活躍するロビンソンやラリー・ドビー(インディアンス)に関心が移っていくのはある意味では致し方ないことでした。

豊浦

ラリー・ドビーはア・リーグにおける黒人選手第1号で、彼のデビューはロビンソンのわずか2ケ月半後のことでしたね(筆者注 : ドビーは晩年中日ドラゴンズでもプレーしている)。その点では、パイオニアとしての苦労は両者同様だったはずですが、ドビーがメディアやファンに語られることは少ないのは残念ですね。

クリーブランドのプログレッシブ・フィールドのドビーの銅像
クリーブランドのプログレッシブ・フィールドのドビーの銅像写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

BK

全くその通りです。世間とは先駆者だけに意を払うもので、これはある程度致し方ないのですが、その分NLBMは彼の功績をきちんと後世に伝えていく役割を担っていると考えています。

東海岸での急速な衰退とは異なり、ロビンソンデビュー以降も中西部では比較的長くニグロリーグは存続しました。例えば、カンザスシティでは最も近いMLB球団は約200マイル(約320km)も離れたセントルイスのカージナルスだったからです(筆者注:カンザスシティにMLB球団が誕生したのは1955年のことで、アスレチックスのフィラデルフィアからの移転によるものだった)。

カウフマン・スタジアム内のKCの野球殿堂には、ニグロリーグのブルース、モナークスとともにアスレチックスに関する展示も(2024年筆者撮影)
カウフマン・スタジアム内のKCの野球殿堂には、ニグロリーグのブルース、モナークスとともにアスレチックスに関する展示も(2024年筆者撮影)

ニグロリーグの消滅は、公式には最後に残ったニグロ・アメリカンリーグの最終年である1960年とされています。これは前述のMLB全球団での黒人選手採用が1959年であったことと符号しています。

後編に続くhttps://news.yahoo.co.jp/expert/articles/769d4ad5546ea3ac3f0b74ac910538f339c0c3f5

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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