豊臣秀吉が主催した北野大茶会は、なぜ突如として中止になったのか
2月25日、北野天満宮(京都市上京区)で「梅花祭」が催された。豊臣秀吉の北野大茶会にちなんだ「野点(のだて)」も行われたが、今回は北野大茶会が突如として中止になった理由を考えてみよう。
天正15年(158)7月、豊臣秀吉は薩摩島津氏を九州征伐で屈服させると、天下に自らの名を知らしめるため、北野大茶会を催すことにした。
秀吉は諸大名、公家、茶人に朱印状を送り、同年10月に茶会を開く旨を伝え、以下のとおり参加を促した。
①10月1日に北野の森で10日間にわたって茶会を開き、秀吉の名物の茶道具を公開すること。
②茶を嗜む者は、身分に関わりなく参加してよいこと(外国からの参加も可)。また、服装なども問わない。
③北野の森の松原に畳2畳分の座敷を準備し、服装・履物・席次などは一切問わない。
④茶湯の心得がある者に対し、秀吉自らが目の前で茶を立てること。
茶を準備できない者は、その代用品である「こがし」でもよいとしている。重要なのは、ここまで配慮しても参加しない者については、今後、一切茶の湯をしてはならないという点だ。
開催の当日、会場の北野天満宮の拝殿の中央には、黄金の茶室が持ち込まれた。秀吉自慢の名物の茶道具は、神社の拝殿に並べられた。拝殿の前には秀吉、千利休ら茶頭役を務める四畳半が4席設置され、秀吉の名物で飾りや道具が整えられた。
ところが、翌10月2日になると茶会は突然中止され、その後も再開されなかった。一説によると、九州征伐後の影響で、肥後国人一揆が勃発したため、中止になったという。中止した理由はその後も検討され、以下のような説が提唱されている。
①専制君主特有の単なる気まぐれ。
②1日で秀吉の自己顕示欲が満たされた。
③参加者のあまりの多さに、秀吉が茶を点てるのに疲れてしまった。
④開催直前になって、1日だけの開催に変更されていた。
いずれにしても、秀吉は九州征伐に成功し、自らの威勢を天下に知らしめたのだから、所期の目的を達成したといえよう。北野大茶会は、そのオマケでもある。
秀吉は強い意気込みで茶会を催したものの、意外にも途中で飽きてしまったのか、疲れたのかもしれない。