オートバイのあれこれ『新生ガンマはV型エンジンで勝負!』
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/title-1718812731443.jpeg?exp=10800)
全国1,000万人のバイク好きたちへ送るこのコーナー。
今日は『新生ガンマはV型エンジンで勝負!』をテーマにお送りします。
1983年(昭和58年)にデビューし、レーサーレプリカブームの火種となったスズキの『RG250ガンマ』。
![▲RG250Γ〈1983/画像引用元:スズキ〉](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/image-1718812742158.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
レーシングマシンさながらの外観、市販車初のアルミ製フレーム、クラス最強の45psを発揮するエンジンなど、ガンマはそれまでの常識を覆す作り込みでもってして、世のライダーたちのハートを射抜き大ヒットモデルとなりました。
ただ、メーカー同士の開発競争が熾烈だった時代のなかにあって、ガンマの栄光もそう長くは続きません。
85年になるとヤマハが『TZR250』がリリースし、86年にはホンダから『NSR250R』が登場。
![▲TZR250〈1985/画像引用元:ヤマハ発動機〉](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/image-1718812807249.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
やはり“後出し”なだけあって、TZRもNSRもガンマを上回るパフォーマンスを備えていました。
スズキも年を追うごとにガンマの熟成・改良を進めていたことは言うまでもないのですが、やはり後出しで登場してきたライバルたちの勢いは凄まじく、ついにスズキはガンマの全面刷新を決意。
そうして88年(昭和63年)に生み出されたのが、『RGV250ガンマ』でした。
![▲RGV250Γ〈1988/画像引用元:スズキ〉](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/image-1718812837038.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
この新生ガンマの最大の見どころは、エンジン。
車名に「V」が加わっていることからも分かるとおり、従来のパラツイン(並列2気筒)からVツイン(V型2気筒)へと変更されました。
当時のスズキのGPマシン『RGV-Γ500』のエンジンがV型だったこと、また、絶大な支持を集めていたライバルのNSRがVツインを採用していたことも、ガンマのこのアップデートに影響を与えたのかもしれません。
そしてフレームについても、メインチューブがかなり太いツインスパータイプへと変貌していました。
ホイールもリム幅の広い17インチ径のものが採用されたりと、この刷新により車体設計は現代のスポーツバイクに通ずるものへと進化していたといえます。
![▲NSR250R〈1986/画像引用元:本田技研工業〉](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/image-1718812882817.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
Vガンマがデビューした頃、人気の中心にいたのはなんといってもNSRでした。
しかし、このVガンマも発売早々好調な売れ行きを見せることになります。
もちろん、“新生ガンマ”ということの話題性もありましたが、人気ぶりを強く後押ししたのが、レーシングライダーのケビン・シュワンツでした。
![▲1988年のWGP第1戦でガンマ500を駆るシュワンツが劇的勝利!〈画像引用元:スズキ〉](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/rotti/article/01809537/image-1718812924621.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
どういうことかと言うと、Vガンマの発売とほぼ同じタイミングで開催された世界グランプリ(WGP)・日本ラウンドにて、RGV-Γ500を駆るシュワンツが前年王者のワイン・ガードナー(ホンダ)を下して勝利したのです。
まだ経験の浅かったシュワンツがガンマと共にガードナーを倒したことは大きな宣伝となり、シュワンツに憧れた層などからVガンマは大きな人気を得たのです。
レースでの活躍と市販車の売れ行きが直結していた、いかにも当時のレプリカモデルらしいエピソードといえるでしょう。