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【深読み「鎌倉殿の13人」】軍事的天才の源義経が頼朝に対抗できなかった当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
軍事的天才の源義経は、なぜ兄の頼朝に対抗できなかったのか?(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源義経が頼朝に叛旗を翻したものの、あっけなく逃げることになった。なぜ、義経は頼朝に対抗できなかったのか、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■源義経は軍事の天才?

 源義経が平家滅亡の功労者だったことは、まったく異論がないだろう。むろん、ともに行動した源範頼の存在を忘れてはいけない。2人の貢献度は、実に多大だったのである。

 義経の活躍ぶりについては、『平家物語』などの軍記物語に詳しい。とはいえ、『平家物語』はあくまで文学作品であり、登場人物の姿を生き生きと描かざるを得ない。したがって、義経の活躍ぶりが大袈裟になってしまうのは、いたしかたないだろう。

 この時代に限らず、戦国時代でも合戦の状況を正確に記した一次史料はほぼ皆無である。したがって、軍記物語などの二次史料を頼りにするにしても、内容にどこまで信が置けるのかという疑問が残る。

 そもそも論として、合戦全体をくまなく見渡して、戦況を書くことは可能かという問題がある。普通に考えると、極めて困難であることが理解できよう。

 合戦で勝利する条件はいろいろあるが、平家追討の件でいえば、都落ちした平家は敗勢が濃く、士気が低下していたことが敗因の一つと考えられる。途中で脱落する将兵も多かったに違いない。

 一方、義経や範頼が率いる軍勢は東国の強者で、数も多かった。つまり、戦う前から義経らに勢いがあったのは事実で、義経の天才的ともいえる軍事的才覚に勝因のすべてを求めるのではなく、当時の置かれた状況を考慮すべきだろう。

■義経配下の将兵

 義経は長らく奥州藤原氏のもとで庇護されていたので、譜代の家人などは存在しなかった。諸史料から義経に従った者を挙げると、弁慶、伊勢義盛、佐藤継信・忠信など数えるほどしかいない。

 弁慶以下の面々は、土地所有を媒介としない従者だった。義経が弁慶らに所領を給付し、それに対して彼らが義経に奉公するという形式ではなかったのである(史料がないだけで、何らかの形で給付した可能性はあるが)。

 いずれにしても、義経に従う家人はごくわずかであり、極めて脆弱な軍事的基盤だった。義経が平家を滅亡した際、従った軍勢のすべては、頼朝の命により出陣した東国の豪族たちだった。いかに義経に軍事的な才覚があっても、東国の豪族なくしては勝てるはずがなかったのである。 

■源頼朝に抗しきれなかった理由

 元暦2年(1185)10月、義経は関係が悪化していた兄の頼朝に対して兵を挙げた。事前に、後白河法皇からも頼朝追討の宣旨を得ていた。しかし、義経のもとに馳せ参じる将兵はほとんどいなかった。

 そもそも東国の豪族は頼朝を盟主と仰ぎ、打倒平家に協力した。頼朝は後白河と種々交渉し、東国の経営権を獲得し、不動の地位を築いていた。したがって、彼ら東国の諸豪族が頼朝のもとを離れ、義経のもとに集まるとは、とうてい考えられないのである。

 おそらく義経も同じことを懸念していただろうが、後白河や叔父である行家の力を借り、何とか局面を打開しようと考えたのだろう。しかし、現実はそんなに甘くはなく、義経は無念の思いを抱きながら、都落ちせざるを得なかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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