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飯尾連龍の妻・お田鶴の方は、どんな女性だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、最後の場面で飯尾連龍の妻・お田鶴の方が登場した。お田鶴の方はどんな女性だったのか、考えることにしよう。

 お田鶴の方は、鵜殿長照の妹で、生年は不詳。曳馬城(浜松市中区)を居城とする、今川氏の家臣・飯尾連龍の妻となる。

 飯尾氏は室町幕府の奉行人の系譜を引くといわれ、名門の家柄だった。今川氏に請われて、遠江国にやって来たという。なお、連龍は乗連の子として誕生したが、生年は不明である。

 永禄3年(1560)の桶狭間の合戦において、今川義元が織田信長に敗れて戦死した。その後、今川氏の家臣は氏真の器量に疑念を抱き、早々に離反する者が少なくなかった。

 堀越、松井の各氏に加え、天野景泰・元景親子も氏真を見限っていた。天野氏は鎌倉以来の名族であり、その本拠地は伊豆国天野郷(静岡県伊豆の国市)にあった。のちに遠江国犬居郷(浜松市天竜区)に本拠を定め、犬居城を築城したのである。

 永禄6年(1563)に「遠州忩劇」(遠江の国衆による氏真への反乱)が勃発すると、天野景泰・元景親子は飯尾連龍ともに、今川氏真から離反した。しかし、同年中に2人の反乱は、天野藤秀によってあっけなく鎮圧された。連龍は、再び氏真に仕えた。

 2年後の永禄8年(1565)12月、連龍は駿府に出仕したところ、氏真の軍勢に攻められ殺害された。氏真は連龍が徳川家康と内通していると考え、その疑念が晴れなかったので殺したという。

 お田鶴の方に関しては、井伊直平に毒茶を勧めて殺害したという逸話がある。永禄6年(1563)のことである。異説によると、直平を毒殺したのは、連龍であるともいわれている。いずれの説が正しいのかは、今となっては不明である。

 お田鶴の方は、永禄11年(1568)に家康の軍勢に攻められて死んだという。お田鶴の方の生涯には不明な点も多いが、今後、ドラマで重要な役割を果たすかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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