本能寺の変で織田信長に槍を刺した安田作兵衛の不幸なその後
近年はネットニュースを確認すると、やたらと「暗殺」という言葉が飛び交う。物騒な時代になったと痛感する。
天正10年(1582)6月2日、織田信長は滞在していた本能寺を明智光秀に襲撃され、無念にも自害して果てた。これも暗殺といえるのだろう。その際、安田作兵衛(国継)が槍を信長に刺したというので、詳しく取り上げることにしよう。
作兵衛は、美濃国安田村(岐阜県海津市)で弘治2年(1556)に誕生した。作兵衛は斎藤利三(光秀の家臣)に仕え、「明智三羽烏」と称された。
なお、ほかの2人は、箕浦新左衛門豊茂、古川九兵衛兼友である。本能寺の変の際、先述のとおり、作兵衛は信長に槍を刺したと伝わっている。
また、信長の小姓の森蘭丸(成利)と対峙し、作兵衛は股間付近を蘭丸の十文字槍で突かれたものの、これを討ち取るという軍功を挙げたという。
これらの話は、森家の歴史を記す『森家先代実録』という後世にまとめられた編纂物に書かれている。ほかに、以上の事実を裏付ける史料はない。
本能寺の変の直後、山崎の戦いで光秀は羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、逃亡中に土民に討たれた。その後、作兵衛は天野源右衛門と名前を変えて牢人となり、やがて羽柴秀勝、同秀長らに仕えた。
ところが、決して仕官生活は長く続かなかった(以下も「作兵衛」で統一)。天正15年(1587)の九州征伐(島津氏征伐)では、立花宗茂に従って出陣し、大いに軍功を挙げたと伝わっている。
さらに、作兵衛は文禄・慶長の役にも出陣し、そのときの奮闘ぶりを『立花朝鮮記』(『天野源右衛門覚書』、『朝鮮軍記』とも)にまとめた。
しかし、同書は幕末に清水正徳(あるいは伴信友)が作兵衛に仮託して書かれたもので、今では偽書であるといわれている。つまり、まったくの虚構なのである。
大いに軍功を挙げた作兵衛は、宗茂に多大な恩賞を要求したが、宗茂の譜代の家臣は大いに不満だった。それは厚かましい話なので、むしろ当然といえるかもしれない。
重臣の十時伝右衛門はその急先鋒で、合戦で作兵衛を出し抜いて一番槍の功を挙げ、作兵衛を立花家から追放することに成功した。その結果、作兵衛は旧友の寺沢広高を頼り、8000石を与えられたのである。
若い頃、作兵衛と広高は、どちらかが大名になったとき、片方を召し抱えると約束したという逸話がある。慶長2年(1597)6月2日、作兵衛は唐津(佐賀県唐津市)で病死した。亡くなった日が信長と同じだったので、その祟りが原因だといわれたという。