本当に無能だったのか? 大坂の陣に際して、世間に流布した大野治長の黒い噂の数々
世間では、無能な人物がトップを支えていることが珍しくない。豊臣家を支えた大野治長もその一人と考えられ、江戸時代以降にさまざまな黒い噂が流れた。それが事実なのか考えることにしよう。
治長と淀殿(豊臣秀吉の側室)との間には、不穏な噂が流れていた。たとえば、慶長4年(1599)には、治長は淀殿と密通している風聞が広まっていた(『萩藩閥閲録』)。同じような話は、『多聞院日記』や『看羊録』にも書かれており、かなり話題になっていたようだ。
『明良洪範』には、秀頼は治長と淀殿の子だったと記されている。おそらく、治長と淀殿との密通が根拠となったのだろう。秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も真偽をめぐって論争があるが、もはや確かめようがない。
治長は大坂の陣に際して、軍議で真田信繁ら牢人衆らの献策(籠城ではなく、外に打って出る)を拒否し、徳川方を討つ絶好のチャンスを失った。それゆえ牢人衆は、何度も悔しがった。こうして治長は、豊臣家を滅亡させた張本人であると思われている。
現在、治長の評価は変わっているように思える。治長は、基本的に豊臣家存続のために奔走しており、徳川家との和睦締結にも心血を注いだ。
当時、京都所司代を務めた板倉勝重は、書状の中で治長について「治長は粘り強く事に当たり、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかった」と評価している。
悪事とは徳川方からの意見であり、逆に豊臣方から見れば、秀頼のためということになろう。治長は、豊臣家の忠臣だったと評価できるのではないか。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際し、治長は織田有楽とともに徳川方と和睦交渉を行い、締結後は人質として子の治徳を徳川方に送った。しかし、盟友である織田有楽が和睦後に大坂城を退城したので、治長は苦境に立たされた。
和睦締結後、大坂城の惣構や堀などが埋め立てられ、周囲は丸裸になった。慶長20年(1615)に大坂夏の陣がはじまると、豊臣方はすぐに劣勢に追い込まれた。
治長は秀頼・淀殿の助命に奔走するが、秀頼の妻・千姫を逃がすのが精一杯だった。同年5月8日、治長は秀頼らとともに大坂城で運命をともにした。「歴史は勝者が作る」というが、治長は後世に貶められた可能性が高い。