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【光る君へ】異常なまでの出世を遂げた、藤原道隆の子・伊周とは何者なのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 牛車(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道隆の子・伊周が大きな存在感を示すようになった。伊周とはどういう人物だったのか、考えることにしよう。

 天延2年(974)、伊周は道隆と貴子(高階成忠の娘)の子として誕生した。伊周には道頼、頼親という兄がいたが、母の家柄が良かったので嫡子の扱いとなった。道頼の母は藤原守仁の娘で、頼親の母に至っては不明である。生まれながらにして、伊周は幸運だったといえる。

 貴子の父の成忠は、文官や地方官を歴任した苦労人として知られている。永観2年(984)、成忠は東宮の懐仁親王(のちの一条天皇)の東宮学士を務めた。

 寛和2年(986)に一条天皇が即位すると、これまでの功が評価され、従三位に叙せられた。成忠は、高階氏として初の公卿になったのである。その後、定子(道隆と貴子の娘)が中宮になったので、成忠は従二位に叙せられたのである。

 貴子は父の文才を引き継いで、和歌や漢詩が得意だったといわれている。伊周はその血を受け継ぎ、教養豊かで文才があった。当初、成忠は貴子と道隆の結婚に難色を示していたが、道隆の後姿を見て、必ず大臣になる人物だと直感したという。

 そのようなこともあり、2人は結ばれたというが、説話集『古今著聞集』に書かれたことなので、いかがなものか。

 そのような事情もあり、伊周の出世は早かった。寛和元年(985)、伊周は12歳で元服すると、いきなり従五位下に叙せられ、翌年には昇殿を許された。以後の出世も順調だった。

 正暦元年(990)5月、藤原兼家が病没すると、子の道隆があとを継いだ。道隆は摂政に就任すると、娘の定子を一条天皇の中宮にした。それだけではなく、弟の道兼、道綱、道長らを次々に昇進させた。加えて、しっかりと子の伊周も昇進させたのである。

 同年、伊周は右近衛中将・蔵人頭になると、翌正暦2年(991)には参議に任じられ、さらに従三位に叙せられた。同年9月に先任の参議7人をごぼう抜きして、権中納言に昇進したのである。その翌年には、正三位・権大納言に昇進したのだから、異常なまでのスピードである。

 正暦5年(994)7月、左大臣の源雅信が病没すると、伊周は叔父の道長ら3人を飛び越えて、21歳という若さで内大臣に任じられた。さすがに、ここまで異常なスピードで伊周を昇進させると、あまりの身びいきに道隆への批判が高まったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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