もうすぐ、命日
「ジョニー、キミはアルバカーキーの勇者だった。静かに、そして安らかに休んでくれ。もう苦しまなくていいんだよ」
2012年5月28日、私はCNNのWEBサイトでジョニー・タピアの死を知った。享年45。冒頭の書き込みは読者からのものである。「もう苦しまなくいい」という短い言葉が胸に突き刺さった。
1967年2月13日、ニューメキシコ州アルバカーキー生まれのタピアは、WBOスーパーフライ級、IBFスーパーフライ級、WBAバンタム級、WBOバンタム級、IBFフェザー級の世界王座に就いた。スピード溢れる一級品のテクニシャンだった。
華々しいリングキャリアと共に、いつも話題になったのが薬物の乱用である。コカイン中毒になっており、何度も逮捕された。全身に彫ったTATTOOとその足跡から、荒くれ男のような印象を持たせたが、彼がクスリに走るのは、本人でなければ分からない苦しみを抱えていたからだ。
タピアは父親の顔を知らない。母親が彼を身籠った頃に、殺害されているからだ。そして、8歳の時、最愛の母、バージニアも突然彼の前から姿を消している。
その日、タピア少年は胸騒ぎがしたという。これから外出するという母親に向かって、何度も「今日は行かないで、僕の傍にいて」と言った。「すぐに戻るわよ」と愛息を抱きしめる母は、棒タイプのチョコレートを手渡して、家を出た。
日々の生活と育児に追われる母は、週末の度に踊り行った。それが、彼女の休息だったのだ。バージニアはタピアを両親に預け、いつものように車で外出した。それが、後のチャンピオンと母親の最後のコミュニケーションとなる。
その夜、タピアは2人の男が乗ったピックアップトラックに鎖で繋がれた母が「助けて!」と叫ぶのを目にした――。彼は飛び起きると祖父の部屋に駆け込み、「起きて、起きて! ママが大変だよ!!」と救いを求めたが、「悪夢を見たんだ。早く部屋に戻りなさい」と取り合ってもらえなかった。
「幻だったのか、俺は夢を見たのか?」
数十年が経過してからも、タピアはこの夜を振り返る。数日後、バージニアは遺体で発見された。アイスピックで体内の26箇所を刺された傷があった。さらには、レイプされた痕跡もあった。
8歳のタピアは目の前の現実を受け止めて生きるが、言葉で表現するほど生易しいものではない。彼は祖父母に引き取られた。
バージニアは12人きょうだいの長姉だった。従兄弟など15名の年長者たちと3ベッドルームでの共同生活が始まる。病気になっても、病院に行くカネなどない。腹いっぱい食べる物もない。いつも腹が空き、全員が自然とタフになった。
叔父や叔母たちは、多くがドラッグに溺れ、留置所と刑務所と娑婆を出たり入ったりの生活だった。典型的なヒスパニックハーレムである。隣人たちも似たり寄ったりで、殺人犯として服役していたものも少なくない。タピアにとって彼らはノーマルだった。
9歳の時、タピアは祖父からボクシングの手ほどきを受ける。祖父は若き日にこの競技に打ち込みアマチュアの州チャンピオンになっていた。初めての試合では肘打ちや噛み付きで失格負けを喫したが、11歳にして再デビューしたタピアはアマチュアタイトルを総なめにする。天賦の才に恵まれたことは、本人も祖父も、そして彼の練習風景を一度でも目にした人なら、素人でも分かった。マイク・タイソンもが、タピアの闘いぶりを絶賛した。
しかし、タピアはなかなか才能を活かせない。1983年にナショナル・ゴールデングローブ、ライトフライ級のチャンピオン、翌々年に同フライ級王者となり、プロ入りを打診されても、ドラッグに溺れ、度々リングを離れてしまうのだ。薬によって“ハイ”になる時間を持たなければ、自身の運命に押しつぶされるしかなかったのだ。
他に生きる術がないと理解し、プロに転向してからもその傾向は続いた。USBAスーパーフライ級チャンピオンとなり、ペプシコーラと大口のスポンサー契約を結んだうえ世界タイトルマッチが内定しても、コカイン所持で逮捕され、3年以上ものブランクを作ってしまう。
ドラッグはタピアに快楽とエネルギーを与えてくれるだけでなく、母を失った淋しさと、殺人及びレイプ犯への怒りを忘れさせてくれる唯一のものだった。イリーガルな行為だとは分かっていたが、タピアを薬から遮断することは誰にもできなかった。
「俺はいつもリングで闘う相手を、母を殺した犯人だと思っていた。だから、負ける筈がなかった」
計量時や記者会見の際に、彼が対戦相手とひと悶着起こすには、こういった背景があったのである。
そんなタピアに「ベターライフを築きたい」と思わせたのは、テレサ夫人との邂逅だった。リングで稼いだ全てのカネをドラッグにつぎ込み、ストリートを徘徊し、橋の下で寝起きするようになっていた1993年の初め、タピアはあるパーティーでテレサを目にし、一目惚れする。声を掛けると、彼女は冷たく言い放った。
「あなた、何か問題を抱えているみたいね。私はあなたと話す気はないわ」
ヒスパニックの貧民街で育ったとはいえ、ボクシングで頭角を現してからは黄色い歓声を浴びていたタピアのプライドは地に落ちる。が、猛攻をかけ、翌年結婚に漕ぎ着ける。テレサはプロボクサーである夫のマネージャーとなって、共にリングに上がった。そして、陰に日向にタピアを支える。精神的安らぎを得たタピアは、世界チャンプとなり、富と栄光を手にする。3人の男児を授かり、ラスベガスの豪邸で仲睦まじく暮らすようになった――。
少なくとも、傍目にはそう写った。私自身も、MGMグランドガーデンやマンダレイベイ・イベンツセンターでは肩を並べて座るタピア夫妻を何度も目にした。テレサ夫人は如才なく、メディアにも好意的で名刺交換した覚えがある。
だが、タピアのトラウマが消えることは一日たりともなかった。タピアは、母が最後に手渡してくれた棒タイプのチョコレートを好んだ。包みを破き、口にすると母親の姿が蘇る。そして、彼女をレイプした憎き男たちの影を見るのだった。
1999年、ポーリー・アヤラと戦を控えたタピアは報道陣に語った。
「先日、32歳になったよ。母が亡くなった歳だ。まさか、自分がここまで生きるなんて思いもしなかった」
そして自身が初黒星を喫することになるアヤラ戦の18日前、タピアは警察からの電話を受ける。オフィシャルなポリスレポートとして、母を殺害した男が酒によってよろめき、車にはねられて死んでいたことを聞かされた。既に死後、16年が経過していた。トレーニングキャンプ中に入ったこの1本の電話が、精神的動揺をもたらし、プロ生活初の敗北に結び付いたことは想像に難しくない。
それでも、あれほどのファイトを演じられたのか――。
タピアより2歳下の私は、断片的に伝わるタピアの情報を知れば知るほど、彼を直接インタビューしたくなった。つい先日刊行した『マイノリティーの拳』(新潮文庫)にも、タピアの章を作りたかった…。
2004年6月、国際ボクシング殿堂の取材を終えた私は、ニューヨーク州の田舎町、シラキューズの空港でタピア夫妻と顔を合わせた。
何故かタピアは私に、「ヘイ、ボス」と声を掛けて来た。そろそろ彼をじっくり書きたいと思っていた私は、次の試合前に3日間密着させてほしい、と頼んだ。本人は2つ返事でOKし、テレサが彼のスケジュールを管理するエージェントの連絡先を記してくれた。
その後、2年以上に渡って交渉した。アポイントメントを入れようと頑張ったが、実現しそうになると、いつも決まってタピアがドラッグ使用で塀の中やリハビリセンターに入ってしまい、キャンセルとなった。10回キャンセルされた折、私は彼へのインタビューを断念した。
テレサ夫人がバスルームで倒れている夫を発見した時、腕には注射針が刺さっていたという。翌日行われた死体解剖の結果、死因は薬物過剰摂取であると『ニューヨークタイムズ』は報じた。
「彼はいい男さ。犯罪者ではない。一人の中毒患者なんだ。根本的に病んでいるから、手当してやらなきゃ」
そう言われ続けながら、最善の治療法を見付けることなく、人生を終えた。
タピアの母親が亡くなったのは、1975年5月28日である。そして、タピアの死亡が確認されたのは37年後の5月27日だった。この一日違いの命日を偶然と呼んでいいのだろうか。
敬虔なクリスチャンだったタピアが天国で愛する母と眠っていることを、私は祈りたい。