Yahoo!ニュース

4年間未勝利からNHKマイルCを勝つまでになった男の恩人に対する想いとは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
13年NHKマイルC(GⅠ)勝ちのマイネルホウオウと柴田大知騎手(写真;アフロ)

忘れられない悔しい思い

 柴田大知が騎手デビューしたのは1996年の3月。天才騎手と言われた福永洋一の息子である福永祐一の他、和田竜二や現在は調教師となった高橋亮らも同期で「花の12期生」と呼ばれた。そんなふうにマスコミに取り上げられたのには、先述のメンバー以外にも女性騎手が3人もいた事も大きな要因だが、柴田自身も弟の未崎と共にJRA史上初の双子の騎手として話題になった。

 デビュー年に27勝すると2年目にも29勝。エアガッツを駆って早くも重賞勝ちをするなど、上々の滑り出しをみせた。しかし、師匠との確執などもあり、3年目からは低迷が続いた。2006年にはついに1年間未勝利で終わると翌07年も0勝。活路を見出さんと障害戦への騎乗を開始すると、08年には障害未勝利戦で久々に勝利の美酒を味わった。しかし、その年も勝ち鞍はその1つだけ。平地での勝利を挙げたのは09年の9月と、長らく勝ち星から見放された。

 「週末に騎乗馬がない週もあり、引退も頭を過ぎりました」

 そんなある日、よく調教を手伝っている厩舎にいた際の話だ。スタッフが柴田の目の前で調教師に次のような言葉を言った。

 『ここのレースに使いたいけど、騎手がいないんですよねぇ……』

 これを耳にした時の心境を述懐する。

 「『目の前にいるじゃないですかぁ!!』って言いたかったけど、当時の成績ではそんな事も言えず、ただただ悔しい思いだけが胸に残りました」

柴田大知騎手(コロナ禍前に撮影)
柴田大知騎手(コロナ禍前に撮影)

助けてくれた1人のホースマン

 そんな窮地を救ってくれる男がいた。08年8月の新潟競馬で、人気薄のダイイチミラクルを2着に好走させると、風向きが180度変わった。

 「ミルファームの清水(敏)社長がすごく喜んでくださいました。そして、社長は以前、勤めていたサラブレッドクラブ・ラフィアンの岡田繁幸総帥を紹介してくださいました」

 以来、いわゆる“マイネル軍団”の馬を頼まれるようになった。すると、11年にはマイネルネオスで中山グランドジャンプ(J・GⅠ)を優勝してみせた。

 「その年は20勝出来ました。4年間も平地で未勝利だった事を思うと、信じられない気持ちでした」

 岡田総帥に対しては感謝しかなかったであろう事は容易に察しがつく。

 更に12年には当時岡田が代表を務めていたビッグレッドファームが生産し、馬主でもあったコスモオオゾラで弥生賞(GⅡ)勝ち。皐月賞でも4着に善戦すると、日本ダービーに参戦した。

弥生賞を勝った際のコスモオオゾラと柴田
弥生賞を勝った際のコスモオオゾラと柴田

 「ダービーに乗るのはこの時が初めてでした。ダービーデーの東京競馬場にいた事はあって、その雰囲気の素晴らしさは身を以って知っていたので、そこで自分も乗れるようになったのは興奮しました」

 結果は6着だったが、勝ったディープブリランテとの差は僅か0秒3。柴田は言う。

 「速い時計の決着で伸び切れなかったけど、思い描いていた競馬は出来ました。仕掛けのタイミングも良かったと思うし、悔いはなく、清々しい気持ちで終われました」

日本ダービーでのコスモオオゾラと柴田
日本ダービーでのコスモオオゾラと柴田

GⅠ勝ちと急逝した恩人に対する想い

 しかし、ドラマはそれで終わりではなかった。ダービーから1ケ月としない6月の下旬、2歳の新馬戦で依頼されたのがマイネルホウオウ(美浦・畠山吉宏厩舎)だった。新馬勝ちすると、3歳となった翌13年、ジュニアCを勝利。スプリングS(GⅡ)へ向かった。

 「ここで3着に好走出来ました。これで皐月賞の権利を取れたので、またクラシックに乗れると喜んでいたら、岡田紘和社長(繁幸の子息)から『マイル路線へ行こう』と言われました」

 クラシックの権利を放棄する決断に驚いた柴田だが、本当の意味で驚かされたのは更に後の話だった。ニュージーランドT(GⅡ、7着)を使った後、NHKマイルC(GⅠ)に挑戦すると、直線の半ばでは堂々と先頭に躍り出た。

マイネルホウオウと柴田
マイネルホウオウと柴田

 「あとは頭の中が真っ白になるような感覚でただただ必死に追いました」

 結果、そのまま先頭でゴール板前を通過。4年間も平地の勝ち鞍から見放されていた男が、デビュー18年目でついに初めてとなるGⅠ制覇をやってのけたのだ。

 「自然とガッツポーズが出ました。引退を考えた時期もあったけど、諦めないで本当に良かったと思いました」

NHKマイルCを勝ったマイネルホウオウはその後、日本ダービーにも出走した
NHKマイルCを勝ったマイネルホウオウはその後、日本ダービーにも出走した

 それから8年。今週末もNHKマイルCが行われる。柴田にとって恩人だった岡田繁幸は約2ケ月前の3月19日、急逝した。それから10日と経たない28日には畠山厩舎のラフィアンの馬であるヒットザシーンに乗り、勝利すると、4月に入ってからもマイネルアミスターで1着。更にマイネルミュトスでは鹿野山特別を優勝してみせた。

 「ミュトスは兄姉もほとんど乗せていただいていました。繁幸社長も期待していた馬で、やっと芯が入ってきて強い競馬をしてくれました」

 そして、訃報を聞いた際の心境は次のように語った。

 「少し前に電話で話したばかりで、体調を崩している事は知っていました。でも亡くなったと聞いた時は耳を疑いました」

 確認後も「しばらくは信じられなかったし、ショックだった」と言い、更に続けた。

 「現在の自分があるのは岡田さんのお陰である事は間違いありません。総帥が願っていたダービー勝ちをいつかかなえて恩返しをしたいです」

 そんな日が来るのを、空の上で岡田も願っている事だろう。

鹿野山特別を勝利したマイネルミュトスと柴田
鹿野山特別を勝利したマイネルミュトスと柴田

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事