【戦国こぼれ話】どちらに味方すればいいのか!犬伏の別れで究極の選択をした真田氏?
■選ぶことの難しさ
立憲民主党と国民民主党の合同の話が持ち上がったが、結局は国民民主党の議員に残留組が出た。それぞれに政治的な信念があるのだから、致し方ないだろう。
いずれにしても、政治家は政策を国政に反映させるには、選挙に勝って与党になる必要がある。
観点はやや違うが、戦国大名が生き残るためには、ときに決極の判断が迫られた。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦における真田氏も同じである。真田氏は、いかなる決断を下したのだろうか?
■関ヶ原合戦迫る
関ヶ原合戦のとき、真田家では昌幸・信繁と信之(信幸。以下、信之で統一)がそれぞれ西軍・東軍に分かれて戦った。そのときの有名なエピソードが犬伏(栃木県佐野市)の別れである。それは、いったいどのようなものだったのか。
慶長5年7月、毛利輝元、石田三成ら反徳川家康の面々は、反家康の決起を促す「内府ちかひの条々」という家康の弾劾状を各地の大名に送った。
こうして関ヶ原合戦がはじまろうとした。ただ、この時点で徳川、豊臣のいずれに与するか悩む大名も少なからず存在し、昌幸も例外ではなかった。
■犬伏の別れのエピソード
そもそも昌幸は東軍の徳川秀忠の軍勢に合流する計画であったが、同年7月に下野国犬伏で、三成からの出陣要請を受け取った。昌幸は真田家の命運をかけた決断をせねばならず、大いに苦悩したのである。
昌幸は2人の子(信之・信繁)を呼び、徳川方と豊臣方のいずれに味方すべきか相談した。その結果、昌幸と信繁は豊臣方に、長男・信之は徳川方にそれぞれ味方することになったのだ。
天正14年(1586)に信之は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)を妻としており、徳川方に味方するのが自然だったに違いない。
一方の昌幸は、次男・信繁とともに豊臣方に与することになったが、信繁の妻は豊臣方に与した大谷吉継の娘だった。吉継が三成に味方した関係上、信繁も豊臣方に味方するのが自然だったのだろう。
■狂句に詠まれた決断
真田家では、親子が東軍(徳川方)、西軍(豊臣方)に与し、敵と味方に分かれて戦うという異常な事態になった。そのときの状況は、次のように狂句に詠まれた。
「東西に みごろを分ける 真田縞」
「たね銭(信之)が 関東方(徳川方)に 残るなり」
「銭つかひ 上手にしたは 安房守(昌幸)」
■昌幸が判断した理由
では、なぜ昌幸はそのような選択をしたのだろうか。
『滋野世紀』などによると、理由は「家のため」であったという。親子が敵と味方に分かれて戦っても、どちらかが勝つのは間違いない。戦いの結果がどうであれ、真田家は必ず存続する。苦渋の選択であったが、合理的な考え方であったといえよう。勝った方は、負けた方の赦免を願い出ることも計算済みだったのだろうか。
家康は信之を褒め称え、父・昌幸の上田領を与えることを約束した。『真田記』によると、家康は信之に対して「伊豆守が忠義の程山よりも高く、海よりも深し」と述べ、差していた脇差を与えたといわれている。
■ユニークな逸話
ところで、その後の状況については、おもしろい逸話が残っている。昌幸は犬伏から上田城(長野県上田市)に戻る途中、孫の顔見たさに信之の居城・沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄った。
しかし、留守を預る小松姫は「義父とはいえ、敵味方に分かれた以上、城に入れるわけにはいきません」と昌幸の申し出を拒否し、さらに「私が自らわが子を刺し殺し、自分もまた自殺して城に火を掛けるつもりです」とまで言った。
仕方なく昌幸はその場を去ったが、近くの正覚寺で休息していると、小松姫が昌幸のもとに子供を連れてやって来たという。心温まるエピソードであるが、これには異説もある。
■小松姫の厳しさ
昌幸は門を打ち破って城に入ろうとすると、薙刀を手にし甲冑に身を包んだ小松姫が門まで走ってきた。
そして、「門を開けようとするものは何者か。殿(信之)が出陣中の留守のところに狼藉に及ぶのは曲事である。皆出て討ち取れ」と配下の者に命令し、続けて「私は本多忠勝の娘だが、家康公の養女で娘でもある」と述べたという。
昌幸は、「武士の娘はかくありたいものだ」と言い残したと伝わる。