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【戦国こぼれ話】大坂の陣の際、宣教師は信者を助けようとして大坂城に入ったのではなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大坂の陣の際、宣教師はクリスチャンを助けようとして大坂城に入ったわけではない。(提供:MeijiShowa/アフロ)

 衆議院選挙が近いとの噂もあるが、どの陣営に与するかは難しく、成り行き任せになることもあろう。大坂の陣の際、宣教師は信者を助けようとして大坂城に入ったというが、成り行きだったようなので検証してみよう。

■宣教師が大坂城に入城した理由

 大坂の陣の際、宣教師が大坂城に入城した理由については、信者たちを見捨てがたかったからだといわれている。ごく一般的に知られている理由であり、信仰のためなら命を投げ出す宣教師の覚悟がうかがえよう。

 また、宣教師は、豊臣秀頼の勝利に期待をかけていたともいわれている。秀頼が徳川方に勝てば、再び布教が許されるからである。しかし、そうした見解は、正しいのであろうか。以下、コーロス宣教師の残した記録をもとに考えてみよう。

 秀頼はキリシタンに好意的だったので、信者の多くは秀頼が徳川家康に勝利することを願っていた。しかし、冷静に判断できる宣教師らにとって、秀頼の敗北は神の摂理であったという。これはいかなることなのだろうか。

 秀頼が勝利した場合、最初こそは宣教師に対して自由な布教活動を許したのかもしれない。しかし、宣教師は時間の経過とともに、現在よりも厳しくキリシタンを弾圧するに違いないと考えた。これでは、秀頼を応援する意味がまったくなくなってしまう。

■宣教師が疑問を抱いた秀頼の行為

 豊臣秀吉の死後、秀頼は家康の強力な支配下のもとにあったので、もはや自身の力だけで天下人になることは望めなかった。そこで、秀頼と淀殿は神と仏にすべてを委ね、秀吉が蓄えた金・銀を寺社に投じていた。同時に祈禱や念仏のために、寺社へさらに多額の金銭を与えていたのである。

 家康との戦いの勝利は単に秀頼だけでなく、神仏の名誉でもあり、神仏への崇敬は盛んになるといわれていた。キリスト教を信仰する宣教師らは、こうした秀頼の行動に大きな疑問を抱いたのである。

 当時、秀吉は神として崇められており、新しい戦の神が新八幡という名称で神殿が建てられようとしていた。こうした行為は、一神教であるキリスト教の信仰とは相容れなかったといえる。

 それゆえ、秀頼は宣教師らに秀吉のための礼拝を要求していたが、宣教師らが反対していることを知っていた。このような一連の流れから、宣教師たちは秀頼が将来的にキリスト教を認めず、全滅させると考えたのである。

■大坂城を去ろうとした宣教師

 宣教師らの大坂城入城に関しても、ロドリゲス宣教師が興味深い報告を残している。実のところ、宣教師たちは大坂の陣開戦とともに、町を去ろうとしていた。しかし、キリスト教の信者たちはこれを許さなかった。

 信者たちは、宣教師たちが信徒のために命をかける勇気がなければ、今までの説教は何だったのかと迫った。そのような事情もあり、半ば強制的に宣教師たちは大坂城に入城させられ、そのうち外へ出る道路が閉鎖されてしまったのである。つまり、どうしようもない状況に追い詰められていたのだ。

 閉じ込められたのは宣教師2人であったが、うち1人は秀頼に謁見し、秀頼から教会を建てて、信者を募ることを許されたという。

■成り行きで大坂城に残った宣教師

 このように見るならば、大坂城に残った宣教師たちは、信者を思って入城したというよりも、信者から迫られて図らずも入城したことになろう。

 同時に、彼らは秀頼にあまり期待を寄せておらず、秀頼の敗北と徳川政権の成立は神の摂理であると述べていた。こうした事実が戦後報告されていることは、実に興味深いところである。

 いずれにしても、豊臣方の敗北によって、江戸幕府が発布した禁教令を覆すには至らなかった。これ以前からキリシタンへの厳しい弾圧はあったが、以後、島原の乱が勃発するまで、信者への厳しい取締りが行われたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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